先手組は戦時には先陣を務めた役職で、弓組と鉄炮組に分かれ、平時には江戸城の中之門・平川口門など内郭の諸門の警備にあたった。また賄方は江戸城内の表や奥(中奥)の台所で取り扱う食料品のほか、膳・椀・家具・草履・下駄など日用品の供給も取り扱う役職で、賄頭の下に多くの役職が分かれるが、なかでも二〇俵二人扶持の賄方は一二〇人、持高勤(もちだかづとめ)(手当がなく自分の家禄のみで勤める者)の賄六尺三八八人、同じく賄新組二二一人と大人数だった。そして、黒鍬組は元来軍陣の土木工事や陣中の雑役に従事した黒鍬(くろくわ)(畔鍬(くろくわ))之者をいい、江戸城内の土木工事や作事、堀・水路の清掃や物品の運搬などの雑務を担当していた。彼らは一二俵一人扶持を給され、幕末には四七〇名ほどが三組に編成されていた。一方、掃除之者は江戸城内の清掃や御使や物品の運搬に従事し、こちらも一〇俵一人半扶持と微禄であり、三組一八〇人ほどが配置されていた。なお、黒鍬之者と掃除之者は目付配下の「五役」と言われる、江戸城内の雑役を務める軽輩であった(田原 二〇〇六)。
このうち、先手組の組屋敷についてみてみよう。彼らは一九世紀には弓組八組、鉄炮組二〇組からなり、各組には役高二〇〇石程度の与力が六~一〇人、三〇俵二人扶持の同心が三〇~五〇人付属していた。各組は複数の組屋敷を持っており、例えば、安政三年(一八五六)の豊田藤之進組は牛込天龍寺前(現在の新宿区四丁目)三八六〇坪余に与力一〇人、内藤宿追分(現在の新宿区歌舞伎町一丁目)一八〇〇坪に同心一〇人、関口目白台(現在の東京都文京区目白台三丁目)一六九二坪余に同心一五人、赤坂薬研坂(現在の赤坂七丁目)七五五坪余に同心五人が割り当てられていた(うち一〇〇坪は弓の稽古場である矢場地)。このうち赤坂薬研坂の組屋敷北側の区画部分には紀州藩家臣二人、御三卿家臣一人、御家人五人が地借となっていた(「諸向地面取調書」、国立公文書館内閣文庫所蔵)。また、その西側に隣接した区画には山田佐渡守組の組屋敷九四六坪(うち一〇〇坪が矢場地)があって、同組の七人の同心の屋敷となっていた。そしてここにも御家人九人、御三家の家臣二人、手代勤(代官所の属僚で、江戸詰の者か)一人が地借となっていた。
このように、赤坂地域の御家人組屋敷は、大縄拝領地でありながら、実際には地借が複数存在し、複雑な居住関係にあったことがわかる。そこで注目したいのが、この地域の拝領町屋敷の多さであろう。
「御掃除之者町屋敷」については、青山御掃除町(現在の赤坂四・七丁目)として「町方書上」にもみえる。それによれば、三河出身の板倉弥次兵衛が家康の関東入国後に赤坂築地周辺を拝領し、その後青山大膳亮上ケ地の一部に替地を与えられたといわれ、ここに三〇名分の大縄拝領地が成立した。その後、元禄九年(一六九六)二月には拝領町屋敷となり、以後町奉行支配を受けることとなった。一九世紀になると、三〇名の子孫はそのまま代々掃除之者を継承する家もあれば、留守居番や、西丸裏門番組同心、切手門番組同心、作事方定普請同心など同心層に転じている者も多かった。そして彼らの坪数は一五〇~二二〇坪程度が多く、ばらつきがあった。
こうした拝領町屋敷は大縄拝領地でありながら、拝領者は地主として家作を持ち、地代・店賃を徴収することを幕府に認められた者たちである。赤坂にはこのような拝領町屋敷は他にも点在していた。そこで文政一〇年(一八二七)の状況を示したのが表2-4-3-1である。これを見ると明らかなように、赤坂新町(現在の赤坂三・五・七丁目)に拝領町屋敷が集中しているほか、七〇坪から二〇〇坪程度という小さい区画が目立っている。そして坊主衆が圧倒的に多い。記載のなかには「他所住居」という不在地主化した状況を示す事例もあり、大部分は町人に貸地とし、地代や家賃収入を得ていたことが推測できよう。
また、組屋敷内や拝領町屋敷内に稲荷を勧請(かんじょう)する場合もしばしばみられ、丹後坂下(赤坂四丁目)の淨土寺裏手にある縁起稲荷は、元禄年間(一六八八~一七〇四)に幕府賄方の組屋敷内に勧請された。三六坪の敷地内に祠を構え、長さ四寸五分(一三・六センチメートル)、台座三寸八分(一一・五センチメートル)の木像の吒枳尼天(だきにてん)を祀っており、当山派(とうざんは)修験の達宝院(たつほういん)が管理していた(「寺社書上」)。
表2-4-3-1 赤坂地域の拝領町屋敷(文政10年)
「町方書上」(国立国会図書館所蔵)をもとに作成