伊賀者給地

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 赤坂には一ツ木町(現在の赤坂二・四~六・八丁目)に伊賀者の給地が点在していることも特徴だろう。天正一〇年(一五八二)六月、本能寺の変が起こったとき、堺に滞在していた徳川家康が伊賀・甲賀を通って伊勢から三河に抜ける「伊賀越え」に際し、服部半蔵正成は父保長の出身が伊賀であることから、伊賀・甲賀の土豪と交渉し、彼らに警護させて家康一行を伊勢から船で三河岡崎まで護衛した。これを機に、彼らは伊賀同心・甲賀同心として徳川家に仕えることとなったといわれ、同一八年八月の家康の関東入国後、正成は与力三〇騎および伊賀同心二〇〇人を付属され、同心給と合わせて八〇〇〇石を領した(『寛政重修諸家譜』)。
 その後、正成は慶長元年(一五九六)一一月一四日に没し、四谷の西念寺に葬られるが、このとき与力七騎・伊賀同心二〇〇人の支配は嫡男正就(まさなり)が継ぐこととなった。しかし、同九年に江戸城半蔵門内の服部屋敷が類焼で焼失した際、普請の手伝いを命じられた伊賀同心の一部が「自分たちが正就の家の普請を行うのは道理に合わない」と目安で訴えたため、幕府が裁定を下すこととなり、正就は改易されたという。
 ところで、家康の関東入国後、上下一ツ木村には伊賀者(伊賀同心)たちの給地(領地)が与えられることとなった。この伊賀者給地二〇〇人分の合計は一〇〇〇石で、一ツ木村の他に隠田(おんでん)村・原宿村・上白子村・下白子村・佐須村・小足立村が割り当てられた。しかし、一ツ木村では一七世紀のあいだに一部が堀や土置場に召し上げられたほか、紀州藩や種徳寺・淨土寺に渡った部分、他の大名・旗本に渡った部分などがあって、正徳二年(一七一二)段階で伊賀者は地方取一四二人半と無地方取(蔵米取り)五七人半に分かれていた。
 一ツ木村については、「町方書上」において赤坂一ツ木町の提出した由緒記載部分に詳しい。それによれば、この地域は戦国時代までは武蔵国豊嶋郡貝塚領(赤坂庄)人継村と称していて、古来より奥州街道沿いの人馬継ぎ立ての地であり、のちの紀州藩の中屋敷の辺りから溜池周辺にかけての広い範囲におよんでいた。その後、徳川家康の入国後間もない頃に、この地は伊賀者一四〇人に与えられたという。以後しだいに町屋が建てられていき、延宝三年(一六七五)には「人継村」を「一ツ木村」と改称し、上一ツ木村は紀州藩中屋敷や鮫ヶ橋(東京都新宿区若葉)となり、下一ツ木村はその後元禄九年(一六九六)に町奉行所支配になったため、「一ツ木町」と改めている。なお、寛文四年(一六六四)四月に、上一ツ木村の給地内に三一人の大縄拝領地が設定されることとなり、これが鮫ヶ橋谷町となって、領民はこの大縄拝領地のうちに借地して商売を始めたという。これはすなわち拝領町屋敷を示しており、同所に屋敷のあった伊賀者の松下家では、元禄九年(一六九六)段階で地借一人、店借一二軒(二六人)がいた(高尾 二〇一七)。

図2-4-3-1 6か所に分散する一ツ木町
「今井谷六本木赤坂絵図」(赤坂絵図、部分) 嘉永3年(1850)国立国会図書館デジタルコレクションから転載 一部加筆


 こうした町場化の過程で、旧下一ツ木村である一ツ木町には飛地が多く生まれ、一八世紀には大きく六か所に分かれてしまった(図2-4-3-1)。このうち③④の赤坂新町三丁目(現在の赤坂三・五丁目)に隣接する二か所は、昔は沢地だったことにちなんで「大沢町」と呼ばれていた。また同様に赤坂氷川社の西方で赤坂新町五丁目の南方の旗本屋敷に囲まれた地⑤(現在の赤坂八丁目)と、そのさらに西方で麻布今井町と岩国藩吉川家の抱屋敷に隣接する地⑥(現在の赤坂八丁目)の二か所は、「西大沢町」の俗称があった。こちらも元禄八年(一六九五)頃までは沼地・沢地だったことによるもので、特に⑤は当初三軒の商家が建てられたことから、「三軒家」とも称したという。また⑥は、吉川家の家中の者で疱瘡(ほうそう)に罹った者はこの町屋を借りて治癒を待つ慣例があったことから、「疱瘡店(ほうそうだな)」の通称があった。なお、飛地である「大沢町」は氷川祭礼において、一ツ木町の一部として山車番組の十番から十二番の構成要素となっているばかりか、「西大沢町」にいたっては、単独で十三番を構成しているのである。そしてこの飛地五か所がいずれも伊賀者給地として幕末まで存続していた。
 伊賀者はその職務として、(1)江戸城大奥の広敷向の番をする役である大奥広敷番、(2)屋敷替などで生じた空き屋敷の番をする役である明屋敷番、(3)江戸城西丸の山里の門・庭の番をする西丸山里番、(4)普請現場の巡視や職工の勤怠の把握をする小普請方伊賀者、(5)鉄炮組を組織し、将軍の参詣時の警固などを務めた鉄炮百人組のうちの伊賀組(他は甲賀組・根来組・二十五騎組)に分かれていた。またこのほかに、(6)享保元年(一七一六)八代将軍徳川吉宗が紀州藩から江戸に連れてきた家臣のうち、村垣左太夫ら一七人を広敷伊賀者に任命して、大奥の動向を探らせたのに始まる御庭番があり、通常は大奥の雑役や警固にあたり、ときには将軍直属の密偵として、市中の風聞や諸大名の動静を探った。このうち、一ツ木町の②にある、明屋敷番の伊賀者の給地二三七〇坪は代々町名主秋元家が所持していたが、田地の頃から紀州藩が一〇年季で借地し、中屋敷に隣接する土地として囲い込んでいた。天保一五年(弘化元・一八四四)にはこの曖昧な状況が問題となり、以後は伊賀者給地抱屋敷として取り扱うこととなった(「市中取締類集」地所取計之部)。
 ところで、一ツ木町と伊賀者との関係性を知る上で、欠かせないのが鈴降(すずふり)稲荷の存在である。同社は古く天慶年間(九三八~九四七)に地元民によって祀られていたという。江戸時代初期には、紀州屋敷北側の四谷仲町の伊賀者の組屋敷内にあり、社名は同組が守護神として持ち伝えていた「天降りの神鈴」に由来すると言われる。元禄八年(一六九五)に幕府から社地を召し上げられ、替地として赤坂新町三丁目に隣接する地に二四一坪半の社地を拝領した。真言系の当山派修験願性院が別当職(実質上の神職)として代々管理・祭祀にあたっていた。四谷仲町(現在の東京都新宿区若葉一丁目)の組屋敷を氏子に持ち、当時は一尺六寸(四〇・八センチメートル)の荼枳尼天(だきにてん)の木像と、高さ六寸八分(二〇・六センチメートル)で弘法大師作とされる十一面観音を祀り、本社・幣殿(へいでん)(幣帛(へいはく)を捧げる社殿)・拝殿・瑞垣(みずがき)(垣根)・鳥居からなる立派なものだった。また、弁才(財)天・不動・愛染・如意輪観音・秋葉(秋葉権現)・金毘羅・薬師なども合殿として祀っていたようである(「寺社書上」)。
 このように、一ツ木町は町としての起立以前の近世初頭から、伊賀者給地という由緒が幕末まで反映されたため、区画が分断され、一部はかなり離れてしまった。しかし、赤坂氷川社は氏神としてこれを地域的にまとめる役割を果たしており、それは享保一五年(一七三〇)四月に現在地に遷宮するまでは、一ツ木町に鎮座していたことに由来しているのである(五章二節二項参照)。  (滝口正哉)