大名屋敷跡遺跡の概況

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 大名屋敷跡遺跡は港区内のほぼ全域で発見されているが、発掘調査が屋敷全域に及んでいる例は少ない。このことは、開発や建築等の計画範囲が、屋敷範囲とそっくり重なることがまずないのはもちろんであるが、遺跡の有無が確認される前に消失した大名屋敷跡が多数存在することを示している。特に、早くからビル建築が始まった港区の北東域で、この傾向が高い。調査面積でみると、播磨龍野藩脇坂家・陸奥仙台藩伊達家・陸奥会津藩保科家屋敷跡遺跡(No.98、通称「汐留遺跡」)が群を抜いて広く、しかも屋敷のほぼ全域で発掘調査が行われており、その成果は貴重である。しかし、一般的には攪乱により欠失した部分が多く、精査や記録作成は分断されがちである。屋敷のほぼ全域が調査対象となった陸奥八戸藩南部家屋敷跡遺跡(No.83)、石見津和野藩亀井家屋敷跡遺跡(No.156)や愛宕下武家屋敷群-近江水口(みなくち)藩加藤家屋敷跡遺跡(No.181-2)などは、その典型的な例といえる。また発掘調査は、工事掘削が及ばない範囲を対象としない原則から、精査が屋敷全域に及ばない場合もあり、いずれにしても大名屋敷の全体を考古学的に把握することは難しい。
 江戸の町が切土・盛土の繰り返しによって形成・維持されてきたことは既に述べたとおりで(一章二節二項参照)、大名屋敷も例外ではない。港区内北東部の低地や南東部の微高地で発見される大名屋敷跡遺跡では、幾層に及ぶ盛土・整地層が見られ、港区の西半から南にかけて発見される大名屋敷跡遺跡では、台地・斜面および谷間を敷地に抱え込み、こうした地形を巧みに改変しながら屋敷を造営していたことが確認されている。
 本節では、立地条件が異なる汐留遺跡と長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡(No.9)を中心に、大名屋敷の実態を概観する。