海浜部に造営された大名屋敷・汐留遺跡

290 ~ 291 / 499ページ
 この地は、江戸時代の初期には海浜部の低湿地帯で、『武州豊嶋郡江戸庄図』によれば将軍家が鷹場として利用していた。その基盤は「江戸前島」の通称を持つ半島状の砂州で、汐留地区はその最南端に位置し、江戸時代、北から播磨龍野藩脇坂家(五万三〇〇〇石)、陸奥仙台藩伊達家(六二万石)、陸奥会津藩保科家(二三万石)が屋敷を構えた。最初に、脇坂家が北端を拝領した。寛永九年(一六三二)以前のことと考えられている。次いで南端を寛永一六年(一六三九)に保科家が拝領し、最後に寛永一八年(一六四一)、増上寺境内の下屋敷を召し上げられた伊達家が、替地として脇坂家拝領地と保科家拝領地に挟まれた二万五八一五坪を拝領した。いずれも拝領当初は下屋敷であったが、後に脇坂家、伊達家の両屋敷は上屋敷となり、保科家の屋敷は中屋敷に変わった。ここでは伊達家の屋敷についてやや詳しくみておこう(一章二節一項・本章一節一項参照)。
 汐留地区に拝領した伊達家の屋敷は、「浜屋敷」「芝(ノ)御屋敷」などと表記された(以下「伊達家浜屋敷」とする)。造成は、寛永一八年(一六四一)に屋敷西側から開始され、あわせて船入場が形成されたと推定されている。その後、四代藩主綱村(一六五九~一七一九)の転居に先立ち下屋敷から上屋敷へ機能が変わるとともに、屋敷内の当初の整備が終了したとみられている。延宝四年(一六七六)のことである(石﨑 二〇一一)。以後も、宝永四年(一七〇七)の敷地の縮小、寛保三年(一七四三)の拝領囲込に伴う屋敷拡張や、度重なる火災被害等により普請が繰り返された。
 発掘調査では、多数の遺構が調査範囲の全域でほぼ万遍なく検出されている。この遺構状況の複雑さや検出数の多さが普請が繰り返された証であるが、遺構の分布には粗密が見られる。明治以降の攪乱の影響が関係していることから、単純に江戸時代の土地利用の在り方と遺構分布状況を関連付けることは危ういものの、国許に残されている屋敷絵図面と照合すると、御殿空間に相応する調査区中央で建物基礎、上水樋、排水溝の密度が高いことが見て取れる。遺構の重複関係が複雑で、時期ごとの遺構分布状況が明確にされていないが、伊達家浜屋敷では一七世紀後半以降、江戸時代を通じておおむね同じような土地利用がなされていたことが発掘調査の成果からうかがうことができる。
 個々の遺構・遺物については紙幅の関係で触れることが難しいものの、伊達家浜屋敷が標高三メートル程の低地に造営されていたことから、木や草本を材料とする遺構、遺物の残存状態が良好で、遺構では土留めの柵、上水樋(ひ)や地下室などの木造構造物、遺物では漆器や木札などの様々な木製品が発見されている。具体例を一つ二つ挙げてみると、例えば、屋敷内を縦横に走る上水樋(一章二節三項参照)は海浜部に近い屋敷での飲料水確保の困難さを彷彿させ、墨書のある木札から人や物資の往来を具体的に知ることができている。また、屋敷絵図面(「伊達家芝上屋敷絵図」「仙台藩江戸上屋敷略絵図」「御上屋敷絵図」)と検出遺構図を重ね合わせることで、絵図面や記録に表された表門が実際に存在した可能性が確認され、池の規模、形状や構造の実態、あるいは変化の推移が明らかにされた(東京都埋蔵文化財センター編 一九九七)。