さて、毛利家がこの地を拝領するのは寛永一三年(一六三六)のことで、面積は約二万七三〇〇坪であった。毛利家はその後、再三に渡り周辺の土地を取得して屋敷の拡大を進め、慶応二年(一八六六)の史料によれば三万四四八七坪余の広大な屋敷となっていた。しかし元治元年(一八六四)、幕府により没収され、建物や施設は全て解体、撤去された(宮崎 二〇〇八)。
長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡は、標高約三〇メートルの台地上から樹枝のように形成された支谷に立地している。したがって、既述の汐留遺跡と異なり、木質や草本で作られている遺構や遺物の残り具合は悪い。
毛利家麻布屋敷に関しては、屋敷全体を描いた三枚の絵図面が知られているが、これらによれば、屋敷は藩主と家族の生活・執務空間である御殿、家老の居宅、江戸詰めおよび国許の下級藩士が居住した長屋、庭園、馬場、寺社から構成されており、一部の建物と寺社は北に隣接する港区立赤坂中学校の敷地に相応する。発掘調査は、この範囲と庭園、馬場を除く範囲を対象に行われた。
屋敷に関わる検出遺構は四九八八基で、その分布状況は南側で密度が高く、調査範囲の中央でまばらになり、北端付近で再び密になる。これを明和七年(一七七〇)から安永九年(一七八〇)の作成とされる「江戸麻布御屋敷土地割差図」(図2-1-3-1 山口県文書館所蔵)に照らし合わせると、御本門・表長屋から東御殿、老中固屋、中長屋辺りにかけての遺構の分布密度が高く、表御殿から長局の一画にかけて遺構のややまばらな空間があり、長局(ながつぼね)などの奥向で再び遺構の密度が高まる。より子細に見てみよう(図2-5-1-1)。
御本門と西側の表長屋、御老中固屋、中長屋周辺では柱穴、ピット(小穴)が多く、地下室、井戸などの比較的大型の遺構が少ない。これに対し、西側の表長屋から東御殿周辺では、地下室や大型の土坑が目立っている。地下室は、長屋の裏庭に設けられ、度々造り替えられていたことが判明している。大型土坑は、ごみ穴として掘られたものや土取りのために掘られたもので、この辺りの土地利用の在り方を示唆する。表御殿から長局の一画にかけては、近代の土地改変による攪乱が顕著で表門の様子を知り得る遺構は検出されていないが、地鎮祭に関連する遺構は共伴遺物とともに注目に値する。奥向の空間に相当する調査区北端では、土坑、柱穴、地下室、上水施設が検出されている。遺物は約七五万点に達し、近世遺跡に通例的に見られる遺物を主とするが、この遺跡を特徴付けている遺物として萩焼を挙げておこう。
地鎮遺構は、表御殿の北で検出された。地鎮祭に用いた品々を伴う、長さ九一センチメートル、幅六三センチメートル、確認面からの深さが一五センチメートルの小型土坑である。共伴遺物は、かわらけ一八枚、「永楽通宝」金銭二枚・銀銭一枚、「寛永通宝」七枚、三鈷輪宝(さんこりんぽう)一点、檜製容器の残片で、上から、二枚一組にして上向きの状態で重ねて方形に配置されたかわらけ一六枚、および永楽通宝・寛永通宝、次いで三鈷輪宝とそれを納めていたと考えられる檜製容器片、さらにかわらけ二枚の順で出土した。地鎮祭が行われた時期は、かわらけが一七世紀前半までの製品とみられることから、毛利家の屋敷拝領時もしくは拝領から間もない頃と考えられている(東京都埋蔵文化財センター編 二〇〇五)。
図2-5-1-1 遺構分布状況と長門萩藩麻布屋敷の構造
濃い墨線が調査範囲と検出遺構、淡い線や網掛けが「江戸麻布御屋敷土地割差図」に記載された建物他、最も淡い線は現在の地割。検出遺構の全てが差図作成時に属するものではないが、遺構分布の傾向は見て取れる。
東京都埋蔵文化財センター編『萩藩毛利家屋敷跡遺跡』(東京都埋蔵文化財センター調査報告第162集、2005)、港区立港郷土資料館編『赤坂檜町の三万年』(2008)をもとに作成。