大名屋敷跡遺跡の発掘調査からわかること

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 前項で、長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡の遺物出土量を示した。概して調査面積が広くなる傾向がある大名屋敷跡遺跡の発掘調査では、土中で残りやすい陶磁器、土器や瓦を中心に膨大な量の遺物がしばしば出土する。近江水口藩加藤家屋敷跡遺跡では、面積二千平方メートル強の調査範囲から一五万点近い遺物が出土したが、決して多い方ではない(大成エンジニアリング編 二〇一九)。このことは、リサイクル社会であったと言われる江戸で、陶磁器や土器など、リサイクルの対象にならない物品が少なくなかったことを意味する。
 また、江戸と国許の関係を示す品々も興味深い。鍋島焼はその典型で、佐賀藩鍋島家(三五万七千石)は将軍家への献上品や大名などへの贈答品として、江戸時代最高の磁器とされる鍋島焼を藩窯で焼造したが、肥前佐賀藩鍋島家屋敷跡遺跡(No.180)の発掘調査により、溜池端に構えられた中屋敷が製品の保管機能を持っていた可能性が考えられている(四門編 二〇一七)。また、石見(いわみ)津和野藩亀井家屋敷跡遺跡では施釉(せゆう)瓦が出土しており、同家の江戸下屋敷に屋根が赤褐色に彩られた建物が存在した可能性が高い(港区教育委員会編 二〇〇八・港区教育委員会編 二〇〇九)。
 獣骨、魚骨、貝などの動物遺体の分析も、江戸時代の食生活史に新たな知見をもたらしている。例えば、タイにみられる嗜好の変化が、郵政省飯倉分館構内遺跡(現在の出羽米沢藩上杉家・豊後臼杵藩稲葉家屋敷跡遺跡〈No.32〉)の調査で検討され(港区麻布台一丁目遺跡調査団編 一九八六)、江戸の人々がイノシシやシカを食べていたことは知られていたことであったが、汐留遺跡や薩摩鹿児島藩島津家屋敷跡第二遺跡(No.122-2)の発掘調査により、江戸時代後期になると、大名屋敷ではブタを食べる習慣があったことが明らかになっている(山根ほか 二〇〇二)。
 このように、遺跡の発掘調査により新しい大名屋敷像が構成されつつある。  (髙山優)