港区内の旗本・御家人屋敷

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 港区内では令和三年(二〇二一)三月一日現在までに三三か所が旗本・御家人屋敷跡と認識されているが、江戸時代を通じて屋敷地の居住者は頻繁に入れ替わるため、旗本屋敷跡・御家人屋敷跡それぞれの厳密な遺跡数を算出することは難しい。
 旗本・御家人の生活レベルはその職務や禄高によって大きな差異があり、屋敷地面積も千差万別である。敷地面積の差は内部構造の差にも大きく影響するとされる。上級旗本の屋敷地では、当主及び家族の居住空間(御殿空間)・家臣の居住空間(長屋空間)・庭園空間といった大名屋敷に近い構成を取ることが多く、下級旗本や御家人の屋敷では敷地面積が狭くなるため(二章二節三項参照)、狭小な建物のみとなることが一般的と言われている。しかし、港区内で旗本屋敷跡・御家人屋敷跡を全面的に発掘調査した事例はほぼ皆無であるため、実際の屋敷地内の空間構成や利用状況は未だ不明な点が多い。特に御家人屋敷については、狸穴坂(まみあなざか)下地区武家屋敷跡遺跡(No.112)や麻布笄橋(こうがいばし)地区武家屋敷跡(No.126)、北青山三丁目遺跡(No.192)で発掘調査が行われているが、いずれの事例でも当時の居住者が短期間で頻繁に入れ替わっているため、各時期の遺構と居住者を対応させて空間構成を復元することは困難である。一方、上級の旗本屋敷の調査例では、屋敷地の空間構成やその利用方法が、居住者の役職を中心とする生活の動向やその暮らし向きを如実に表している例も散見される。以下にその事例の一部を取り上げ、「旗本・御家人屋敷」の実際を概観する。なお、紙幅の関係から各遺跡の詳細については割愛しているため、資料編を参照されたい。