下級旗本の居住空間・港区No.91遺跡

296 ~ 297 / 499ページ
 麻布仙台坂の南側には、古川へと続く低地が広がっている。この地は万治四年(一六六一)三月五日に仙台藩伊達家に与えられた下屋敷の一角であったが、湿気の多い低地は屋敷地としては利用が難しく、かつ広い屋敷地を構えるために必要な平坦面も確保できない土地形状であったためか、享保八年(一七二三)に幕府へ返上され、埋め立てと区割が行われた後に主に下級の旗本の屋敷地として利用されることとなった。
 港区No.91遺跡として行われた発掘調査では、幕末から近代初頭にかけての廃棄土坑(ゴミ穴)、井戸、池跡、水路跡等が検出されている(南麻布福祉施設建設用地内遺跡調査会編 一九九一)。池跡は『五千分一東京図測量原図』の調査箇所に描き込まれた池にあたるとみられるが、池内の堆積土中からは近世に属する遺物も出土していることから、旗本屋敷であった時代から続いた池と推測される。なお、『五千分一東京図測量原図』には池の西側に主屋らしき建物も描き込まれており、明治初期まで旗本屋敷の空間構成がそのまま残っていた可能性があるが、発掘調査では建物を構成する遺構は検出されていない。
 この遺跡で特筆すべきは、ゴミ穴(一号土坑)から多量に出土した和傘の部材(轆轤(ろくろ)〈傘の上端の開閉部分〉・骨材)と漆蓋紙(うるしふたがみ)・漉し紙である(図2-5-2-1)。これらは和傘として組み立てられる前の部品の状態で一度に廃棄されたものと判断されることから、報告者は調査地の居住者が和傘製作をしていた証とみなしている。江戸外縁に位置する旗本屋敷は町人に貸地されることも多かったと考えられており、この和傘部材が廃棄された時点の居住者が旗本ではない可能性がある点を考慮する必要はあるが、この和傘部材と共に刀鍔(とうがく)や比較的質の良い漆器高坏(たかつき)等、武士身分の使用品と考えられる遺物が出土していることから、ゴミ穴(1号土坑)への廃棄を行った人間は少なくとも武士身分であった、と調査者は判断している。また、追川𠮷生は同じゴミ穴から儀礼を伴う宴会で用いられる「カワラケ」(土師質小皿)がまとまって出土している点から、このような儀礼を行う階層である武士身分の居住者を想定している(追川 二〇〇七)。下級武士が俸給のみでは暮らしを賄えず、傘張りや虫の飼育などに代表される各種の内職をしていたことは広く知られているが、このゴミ穴に残された和傘の部材も、文献記録に残る下級武士の暮らしぶりを証明する物的資料と位置づけてよいだろう。

図2-5-2-1 下級旗本の屋敷のゴミ穴から出土した和傘の部材