芝・愛宕下地域は、旗本のべ八二名が集中する港区域最大の旗本屋敷地帯である。ここでは環状二号線建設や新橋・虎ノ門地区の再開発に伴う発掘調査が多くの地点で行われており、旗本・御家人屋敷を集中的に調査した稀有な事例となっている(本章三節も参照)。この屋敷帯の東側にあたる芝口地区のさらに東端、現在の新橋駅南に近接する東新橋一丁目交差点の北西角の一帯に、交代寄合(こうたいよりあい)本堂家(八〇〇〇石)の屋敷跡があった。本堂家は、幕初から明治初年まで変わらずに当地に屋敷を構えており(二章三節二項参照)、居住者の交代が頻繁な旗本屋敷の中では珍しい例である。屋敷地の南西側約三分の一が環状二号線の建設用地となり、それに先駆けて発掘調査が行われた(図2-3-1-1、愛宕下遺跡〈No.149〉、東京都埋蔵文化財センター 二〇一一、二〇一四)。
本堂家には屋敷地の建物配置を記した絵図・文献史料等は残されておらず、『五千分一東京図測量原図』でもすでに区画が小割された状態であるため、現段階では発掘調査で検出された遺構・遺物が屋敷の空間構成をうかがい知るためのほぼ唯一の手段である。以下に、発掘調査の所見をもとに、本堂家屋敷の南西部分の変遷を概観する。
①調査地が本堂家敷地となった一七世紀前葉から中葉までは、小規模な廃棄土坑が点在するとともに、寛永一八年(一六四一)の大火で被災した瓦を廃棄した大規模なゴミ穴(一章三節コラムA参照)、明暦三年(一六五七)もしくは寛文八年(一六六八)の大火で被災した陶磁器などを廃棄した大規模なゴミ穴などが作られていることから、一七世紀中葉まで屋敷地南西側はほぼ空地であったと考えられる。
②明暦三年もしくは寛文八年の大火に伴うゴミ穴の上に、海鼠瓦(なまこがわら)を基壇に用いた遺構(土蔵の基礎構造か)が作られるなど、一七世紀後葉には調査地の利用が開始されていたが、まだ居住空間としての利用はされていなかったようである。
③一八世紀前葉になると、敷地の方向と軸を同じくする礎石建物が二棟作られる。この建物に先立ち、一八世紀初頭よりも前に竹樋・埋桶などからなる上水施設や、木組構造の地下室が新たに配置されているため、この段階で調査地は居住空間となったと考えられる。なお、これらの礎石建物は調査所見から、一八世紀中葉以前に廃絶されたものと見られる。
④一八世紀中葉から後葉には掘立柱建物が作られているが、規模は不明である。また、これらの建物に付帯すると考えられる上水施設(竹樋)が新たに作られている。調査地最南端では、寛政六年(一七九四)の大火あるいは文化三年(一八〇六)の類焼によるものと考えられる焼土溜の上に、規模不明の礎石建物が作られる。これにより、一九世紀初頭段階も引き続き居住空間として利用されていたものと判断される。
⑤一九世紀中葉以降、調査地の西側では性格不明の礎石群や、屋敷西境に並行する木組溝や塀が複数列作られる。屋敷内をさらに区画した痕跡と考えられるが、この他に明確な建物遺構は検出されていないことから、屋敷地南西側は一九世紀中葉以降の本堂家屋敷の最終段階では空地に近い状況であった可能性が高い。
以上のとおり、調査地は一八世紀初頭から前葉にかけて、空地から居住空間へと大きな変更が行われている。上級旗本の屋敷地で空間構成に変化を生じさせる主な要因としては、災害(火災・地震等)による家屋倒壊と再建、当主の交代、敷地形状(面積)の変化、など様々に考えられるが、この事例では「表門の位置変更」という大きな作事が影響した可能性が高い。本堂家の表門は、元禄三年から六年(一六九〇~一六九三)の間に、北から南へと位置が変わっていることが史料調査によって明らかとなっている(渋谷 二〇一一、二章三節二項参照)。この変更に伴い、表門に接して設けられることが多い居住空間も北側から南側へと変更され、調査地には新たに上水・礎石建物などの居住に関わる遺構が作られたのであろう。
なお、本堂家は史料で確認されている限りでは、寛永一八年(一六四一)・享保一六年(一七三一)・寛政六年(一七九四)・文化三年(一八〇六)に屋敷が類焼している。文政八年(一八二五)の「御住居向き惣普請」も含め、その都度屋敷が再建されているが(渋谷 二〇一一)、遺物が伴うことが少ない建物遺構の年代を、これらの屋敷類焼にそれぞれ正確に対応させることは困難である。また、明和三年(一七六六)の下屋敷拝領、明和九年(安永元・一七七二)の添地獲得によっても屋敷空間に変化が生じた可能性が考えられるが、発掘調査の所見からは明確には確認できなかった。