支配秩序への宗教勢力の編入

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 江戸幕府は、自らの支配秩序に寺社などの宗教勢力を編入した。まず、領知宛行(りょうちあてがい)によって大寺社を自らの土地支配の体系へ組み込むと共に、寺社の訴訟にも対応して法度(はっと)を制定した。こうした中で幕府は、先例の遵守と堂舎(どうしゃ)の管理、学問・儀礼の興隆などを求めたが、それは学僧などの教団上層部による秩序化・運営を支援するものでもあった。
 元和元年(一六一五)七月付で、大御所の徳川家康は、浄土宗・真言宗・臨済宗・曹洞宗の本山などの法度を一斉に定めている(『大日本史料』)。これらの法度は、家康が以心崇伝(いしんすうでん)を通じて寺法や先例を調査し、本山などの僧侶に草案を作成させた上で、定めたものである。以心崇伝は臨済宗五山派の僧侶で、京都南禅寺の塔頭(たっちゅう)(境内寺院)である金地院(こんちいん)の住持となった人物だが、幕府に登用されて寺社政策などに携わったことでも有名である。
 上記の諸法度の中でも、知恩院(ちおんいん)(京都)・増上寺・伝通院(でんづういん)(江戸小石川)に宛てられた浄土宗法度は、全三五条からなる長大なものである。同法度では、知恩院を宮門跡(みやもんぜき)(皇族が出家して居住している寺院や、その皇族を指す)とし、宮門跡とは別に住持や役者(役人の僧侶)を置くことをはじめとして、浄土宗教団の寺院・僧侶に関する様々な規定が設けられている。一定期間の修学を積み、伝法儀礼を受けた僧侶が、然るべき格式を得て住持にも就任できるとされ、無知の道心者による伝法儀礼は厳しく禁止されている。また、法談において他者を誹謗(ひぼう)してはならないとされたほか、本山などの許可を得ずに勝手に新寺を建立してはならないとされ、在家(ざいけ)(俗人の家)を借り仏前を飾って利得を求めることや、諸国をめぐって勧進することも禁止されている。本寺の末寺に対する仕置きが認められる一方で、末寺への理不尽な処置が戒められている点も注目される。浄土宗法度は、本山の知恩院や将軍家菩提寺の増上寺・伝通院のもとで教団を統制する基本法となった。