寛文印知

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 その後、四代将軍徳川家綱は寛文四年(一六六四)に諸大名へ、また同五年に公家や寺社へ、それぞれ領知判物(りょうちはんもつ)・朱印状を一斉に発給した(『寛文年録』。判物とは花押(かおう)をすえた文書を指す)。この一斉発給を寛文印知(いんち)と呼ぶ。表3-1-2-1は、この時に領知を宛がわれた港区域の寺社と、その石高を示したものである。同表1番の増上寺領には隠居領二〇〇石が含まれる。2番の金地院(こんちいん)は先述の通り京都南禅寺の塔頭で、寺領は山城国葛野(かどの)郡・愛宕(おたぎ)郡内に設定されたが、江戸の芝にも金地院があるため、表に加えた。3番の愛宕山(あたごやま)は社領で、円福寺(新義真言宗)の支配が認められた。その他の寺社領は一〇~五〇石である。

表3-1-2-1 朱印状受給寺社(港区域)
『寛文朱印留』下(国立史料館、1980)をもとに作成