キリシタンの禁制

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 幕府は自らの支配秩序に順応しない宗教勢力、すなわちキリシタンと日蓮宗不受不施派(ふじゅふせは)の禁圧に乗り出した。ヨーロッパ勢力の日本への進出や、その中でのキリシタンと異教徒・寺社との対立を受け、幕府は慶長一七年(一六一二)以降、段階的にキリシタン禁制を推進した。同一八年には、以心崇伝が「伴天連(ばてれん)追放之文」を著して、二代将軍徳川秀忠に献上している(『異国日記』)。
 元和九年(一六二三)一〇月一三日、芝で五〇名のキリシタンが火刑に処せられた(松田監訳 一九九七)。その刑場と推定される地は、「元和キリシタン遺跡」として東京都指定旧跡に指定されている(図3-1-2-1)。

図3-1-2-1 元和キリシタン遺跡
三田三丁目


 元和九年の火刑以降も、江戸やその他の地域でキリシタンらの処刑が行われた。そして寛永一四年(一六三七)に勃発した島原・天草一揆(島原の乱)を経て、キリシタン禁制は一層強化され、檀那寺(だんなでら)の住持が宗旨・寺檀関係を証明する寺請(てらうけ)による宗門改(あらため)が、寛文期(一六六一~一六七三)にかけて全国的に確立した。江戸の町方においても、町奉行所の支配のもと、名主・月行事(がちぎょうじ)・五人組の連帯責任や寺請を伴う宗門改が徹底されたことがわかる(『江戸町触集成』一-二五八)。寺請による宗門改には、寺檀関係の形成を促す面もあった。このような禁制によってキリシタンが表向き姿を消すと、その実物をイメージすることが大部分の人々にとって困難になり、キリシタンはやがて異端的存在の代名詞(切支丹(きりしたん))となった(大橋 二〇一七)。