一方、日蓮宗内で受不施派と不受不施派との対立が生じ、訴えがなされると、幕府は寛永七年(一六三〇)に受不施派の身延久遠寺(くおんじ)と不受不施派の池上本門寺の当事者を召し出して論争させ(身池対論(しんちたいろん))、不受不施派を処罰した。かつて不受不施を主張して、豊臣政権による京都東山大仏(方広寺)供養への出仕を拒(こば)んだ日奥(にちおう)が、慶長四年(一五九九)の大坂対論を経て、翌年遠島(えんとう)となっていた。この遠島を命じたのは徳川家康であり、その裁きに反して不受不施を主張したことが、身池対論時の処罰理由とされた(宮崎 一九六九)。
続いて、寛文印知における寺領宛行を将軍による供養と見なすことなどを不受不施派の僧侶が拒否すると、幕府は彼らを処罰し、寛文九年(一六六九)には同派の寺請を禁止した(寛文の惣滅)。その際に弾圧を免れた悲田派(ひでんは)も、久遠寺の訴えを受けた幕府によって、元禄四年(一六九一)に禁止とされた。