幕府は特定の行政機構を整えて、公認諸宗と交渉した。幕府の成立当初は、順次登用された僧侶と京都所司代が上方を中心とする寺社問題に対処し、江戸の寺社は町奉行が管轄した。その後、幕閣による掌握が進展し、寛永一二年(一六三五)には寺社奉行という役職が成立した(林 二〇二〇)。
寺社奉行には譜代大名が就任し、職務上は老中の指揮・監督を受け、自らの家臣や幕臣を実務役人として従えた。京都所司代が門跡と交渉し、各地の遠国(おんごく)奉行・代官が管内の寺社問題を扱う一方で、寺社奉行は全国の寺社問題を担当した。案件によっては、町奉行・勘定奉行らと共に評定所の一員として対処した。八代将軍徳川吉宗の政権においては、記録管理の改善が図られ、基本法と判例に基づく寺社裁許(裁判)も定着していった(大友 二〇〇三)。
幕府は朝廷の機能にも依拠しつつ、宗教勢力を本山・本所のもとに統制した。宗門改の展開や、寺社とつながる民衆の宗教活動の盛り上がりを受けて、幕府は寺院の宗派別本末編成や地域的掌握を強く志向するようになり、開帳・勧化(かんげ)(五章四節一・二項参照)の制度化も進めた。また、修験・陰陽師など様々な宗教者の編成を実現していった(高埜 一九八九、杣田 二〇〇三)。
法度による支配を前提とした上で、幕府は教団の自治を認め、自治能力を超えた問題に対処する姿勢をみせた。教義については本山などの統制権を認め、諸宗の紛争を禁止したように、幕府は統治権力として一定の宗教的中立性を実現していた。こうした支配のもとでの宗教者や宗教組織の動向について、次節以降で港区域の事例を中心に詳述したい。 (上野大輔)