幕府の寺地統制

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 寛文二年(一六六二)九月、幕令により江戸町方では、出家・修験者・行人(ぎょうにん)・願人(がんにん)が町屋で宿を借りる際は本寺より証文(身元証明書)を取り、請人(うけにん)(保証人)を立てた上で、裏店(うらだな)を宿とすべきとされた。また、裏店であっても寺院のような構えをしてはならないとされた(以上『御触書寛保集成』二二四六号文書)。同五年一〇月には、諸宗寺院法度「条々」第四条を受けて、出家・修験者・行人・願人などの仏壇を構える者を町中に置いてはならないとされた(同一一七五号文書)。こうして寺地と町人地という、身分別居住区域の線引きが強化されている。
 幕府はまた、新地における寺院の建立を寛永八年(一六三一)に禁止した旨を、寛文八年一〇月に確認した(新地は、古跡と対比される寺地の区分である)。寛永八年令以降、土地を借りて寺院が営まれることもあったようだが、寛文八年二月の江戸大火で焼失した分の土地は幕府が召し上げて、土地の貸し手にひとまず預けるとした。また、焼失しなかった分や不正がないものについては、約束の年限までは現状を認めるが、住持のほうから退くのは自由であるとした(以上、同一一七八号文書。一章一節三項も参照)。