先述のように、戦国時代から江戸時代前期にかけて家や寺院が成立し、新しい寺檀関係が取り結ばれた。その形態に目を向けると、一つの家が一つの寺院と寺檀関係を結ぶ一家一寺(いっかいちじ)(制)と呼ばれるものが多いが、他方で一つの家が複数の寺院と寺檀関係を結ぶ形態もあった。例えば、夫は浄土宗で妻は日蓮宗というように、家族が所属する寺院が分かれている複(ふく)檀家・半(はん)檀家などと呼ばれる形態が確認でき、そのありようは地域によっても異なっていた。また、身分・階層が高くなると、つながりを持つ寺院が多くなるようである。大名家では参勤交代と関わって、国元とは別に江戸にも菩提寺があった(本節コラム参照)。檀家の住所は、檀那寺(だんなでら)の近所であることが多いが、そうでない場合もあり、最も近所の寺院が檀那寺とは限らない。
江戸時代において既存の寺檀関係の変更は、不可能というわけではなかった。ただし、家の当主・嫡子(ちゃくし)は変更が比較的困難であり、ほかの家族とは事情が異なる。当主・嫡子を軸に家が捉えられ、檀那寺とのつながりが固定される場合もあった。ほかの家族も、檀那寺に越度(おちど)がある場合は別として、基本的には関係者間で相談し、合意が得られなければ、檀那寺を変更できない。寺院が檀家を容易に手放さない場合も多かった。幕藩領主の支配と共に、こうした社会的な要因が絡み、寺檀関係の変更は容易でない場合が多かったと言えよう(朴澤 二〇一五)。また、既存の寺檀関係を変更できても、寺檀制度自体の全面的な否定はできなかった。