梅窓院の檀家の推移

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 寺檀関係の具体像は、過去帳から知ることができる。過去帳には、ある人が亡くなった際に、その名前や命日(めいにち)(亡くなった日にち)などが記録され、これを踏まえて法事が行われる。家の過去帳には家族の命日が記されるが、寺院の過去帳には檀家の命日が記されている。
 例えば、青山の梅窓院(ばいそういん)(浄土宗)は、譜代大名の摂津尼崎藩青山家の菩提寺として寛永二〇年(一六 四三)に創建されたが、同寺にも過去帳が伝来している(宇高 二〇〇四)。それによると、江戸時代を通じて青山氏をはじめとする武士が同寺の檀家の中心であったが、江戸時代中期以降には、武士以外の近隣の商人らも檀家の内で一定の割合を占めるようになったことがわかる。寛永二〇年に亡くなった人物としては、青山幸成(よしなり)と他の武士三名の合計四名が確認できるが、およそ五〇年後の元禄期(一六八八~一七〇四)には青山氏を含む武士が毎年一〇名前後で推移する一方で、商人も毎年一、二名ずつ確認できるようになる。一八世紀に入り正徳期(一七一一~一七一六)になると、青山氏を含む武士は毎年おおむね二〇~三〇名台で推移するようになり、一方の商人は享保期(一七一六~一七三六)以降に一〇名を超える年もしばしば見られるようになる。その他の人々を含む全体数は、創建以後、徐々に増加し、元禄期には平均二〇名に届かないが、正徳期に増加したことで三〇名に届かない年は少なくなる。そして享保一五年(一七三〇)頃からは五〇名を超える年も多く見られるようになるが、増加傾向は終息する。以後、年ごとの差はあるものの、ほぼ横ばいに推移して幕末に至っている。以上は、亡くなった人数である。梅窓院の檀家数は、明治三三年(一九〇〇)段階で三〇〇軒と記録されているが、江戸時代中後期にはさらに多かったものと推定される。
 梅窓院の過去帳に記された戒名(かいみょう)に注目すると、青山氏をはじめとする武士が檀家に含まれることから、院号(院殿(いんでん)号を含む)を冠する戒名が、多い年では一〇名以上確認される。青山氏の場合は居士(こじ)や大姉(だいし)といった位号も用いられるが、商人を含むほかの人々には信士・信女や善男・善女などの位号が多く用いられた。また、童子・童女といった位号を持つ子供の戒名も多く見られることから、江戸時代における幼児死亡率の高さをうかがうことができる。以上は浄土宗の戒名であるが、他宗でも同様の院号・位号が広く用いられた。