ところで、幕藩領主のキリシタン禁制の柱である宗門改に際して、檀那寺の住持が宗旨・寺檀関係を証明したことは、よく知られている。これと関わる史料に宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)がある。また、奉公・出稼ぎ・縁組・離縁・引っ越しなどで人々が居所を変更する際にも、檀那寺の住持によって宗旨・寺檀関係の保証がなされた。この時に発行された文書を寺請証文(てらうけしょうもん)・寺請状(てらうけじょう)などと呼ぶ。宗門改に際しての寺請証文もあるが、江戸時代を通じては、人々の居所変更時に発行される証文のほうが有名であろう。このように檀那寺の住持が宗旨・寺檀関係を保証する仕組みを寺請制度(てらうけせいど)と呼んでいる。
例えば、天明四年(一七八四)に通(とおり)四丁目(現在の東京都中央区日本橋)の木戸番人を務めるために角助が派遣された際、元数寄屋町四丁目(現在の東京都中央区銀座)の宇兵衛店(だな)に所属する清兵衛が請人(うけにん)(保証人)となって請状(うけじょう)(保証書)が作成されたが、同時に芝(愛宕下)の青松寺(曹洞宗)の地中である青岸院(せいがんいん)(同宗)が角助の檀那寺の立場から寺請状を発行している(塚田 一九九三)。こうして宗旨の面からも、角助の身分が保証されたのである。 (上野大輔)