触頭制度の概要と港区域の触頭寺院

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 続いて、本節二項で挙げた②の触頭(ふれがしら)制度だが、これは地域ごとに寺院を編成するものと言える。まず、本山が地域ごとに触頭寺院を設置して、配下である触下(ふれした)寺院の統制や幕藩領主との交渉などを務めさせた。触頭寺院は幕府や藩からも任命された。触頭の名のとおり、本山や幕藩領主の法令などを管轄地域の触下に伝達する役割を果たした。また、触下から本山や幕藩領主への訴願がなされる際には、触頭が添状を発行し、願書を取り次いだ。触頭寺院は、こうした職務を担うための組織を発達させている。中には、本山の権限を代行して、独自に触下を支配するものもあった。
 触頭寺院は、幕藩領主に対する教団の交渉窓口となる。江戸触頭は幕府との交渉役であり、藩の江戸留守居(るすい)ともつながった。触頭寺院を介した教団と幕藩領主とのやりとりに注目すると、法令・諸願(しょねがい)・通知事項などの伝達や折々の挨拶・贈答儀礼などが確認できる。触頭を務めた寺院には、関連史料が伝来している場合があり、これらは当時の寺院・教団と幕藩領主との関係を考える上で重要な手がかりとなる。
 このような触頭寺院の大部分は、一七世紀半ば頃までに諸宗で成立し、以後はほぼ固定された。ここで、港区域にあった触頭寺院を示すと、表3-2-4-1のとおりである(触頭寺院の成立年代については、一章一節三項を参照)。本表の触頭寺院は、「諸寺院江被仰出候(えおおせいだされそうろう)掟書」(享保七年〈一七二二〉、『憲教類典(けんきょうるいてん)』所収)と「諸宗階級」(享和二年〈一八〇二〉)で確認できるものであり、よって近世中後期の状況を示している。増上寺(同表の1番)をはじめ、多くの触頭寺院があったことがわかる。「所在地」欄の二本榎は、現在の高輪一~三丁目にあたる。なお、港区外の主立った江戸触頭としては、天台宗の上野寛永寺、真宗西派の築地御坊、真宗東派の浅草御坊などがある。

表3-2-4-1 触頭寺院(近世中後期)
宇高良哲『触頭制度の研究』(青史出版、2017)、表1「諸宗江戸触頭一覧表」をもとに作成(澄泉寺の所在地は修正)