浄土宗鎮西派の増上寺

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 増上寺には膨大な史料群が伝来しており、その一部は『増上寺史料集』や『増上寺日鑑』などの史料集として刊行されているほか、『三康文化研究所年報』にも翻刻(ほんこく)されている(同年報第四・五・三一~四二・四四・四八・五〇号。「増上寺日鑑」を含む)。また、『岩槻市史』近世史料編Ⅱ・浄国寺日鑑(下)には、浄国寺(武蔵国岩槻)伝来分の「増上寺日鑑」が翻刻されている。これらの史料からは、触頭の職務についても知ることができる。
 浄土宗鎮西派の触頭として、増上寺は関八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)と陸奥・出羽・越後・信濃・甲斐・伊豆・駿河・遠江・三河の一七か国の同派寺院を配下に置いた。この内、越後・信濃・伊豆・駿河・遠江・三河の六か国の寺院については、京都の知恩院(同派)から触を出すこともあった。中でも越後・信濃の寺院は、知恩院と増上寺からの両触(りょうぶれ)ということで、知恩院・増上寺に両属していた。その他の諸国は、京都の知恩院・浄華院(じょうけいん)(清浄華院(しょうじょうけいん))・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)・知恩寺(いずれも同派)などが管轄した。一方、浄土宗西山(せいざん)派の寺院は、粟生(あお)(現在の京都府長岡京市)の光明寺や京都の円福寺・禅林寺・誓願寺(いずれも同派)などの配下にあった(宇高 二〇一七b)。
 増上寺の方丈(ほうじょう)(本坊)には方丈役所が設けられ、住持のもとで寺院運営を主導する機関となった。この方丈役所には、方丈役者四名と、月番制の所化方月行事(しょけかたがちぎょうじ)・寺家方(じけかた)月行事二名の、合わせて六名が詰めて、職務に従事した(所化は増上寺の学寮で修学・修行中の僧侶、寺家は増上寺の子院の住持)。方丈役者は住持の代理で、所化役者二名と寺家役者二名からなる。前者は幕府の寺社奉行所との交渉に当たった。所化方月行事・寺家方月行事は、それぞれ所化方・寺家方の僧侶の代表であった。以上六名の合議による意思決定がなされた。また、実務を担う方丈方僧侶も加わり、寺務の執行機関を形づくった(下田 二〇一五)。増上寺には方丈以外にも、本章三節で述べるような組織・建築物があった。