一方、新義真言宗の江戸触頭は江戸四箇寺(しかじ)と呼ばれ、本所弥勒寺(みろくじ)・湯島知足院(ちそくいん)(後に湯島根生院(こんじょういん))・円福寺(表3-2-4-1の4番)・真福寺(同5番)からなる。触頭の業務の増大を受けて、それぞれの寺院が管轄する国を決めて業務を分担する分国制度が寛保期(一七四一~一七四四)に導入され、一寺院で対応困難な場合は四箇寺の合議で処理したようである。また、三か月交代の月番制も導入され、当番寺院が寺社奉行との交渉などに当たった。四箇寺は相互に対等な関係であったが、席順を決める場合は、それぞれの住持が本山で研修した年数に基づき、年数の多い住持を上席とすることとなった(櫛田 一九六四、宇高 二〇一七a)。