臨済宗五山派の金地院

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 続いて、金地院(こんちいん)(同6番)について解説する。慶長一五年(一六一〇)、徳川家康の支援を受けて以心崇伝(いしんすうでん)が駿府にも金地院を創建した。家康死後の元和四年(一六一八)九月、崇伝は二代将軍徳川秀忠から新たに拝領した江戸城内の屋敷に移り、翌年一二月には江戸金地院が創建された。下って寛永一五年(一六三八)、崇伝の跡を継いで住持となっていた最岳元良(さいがくげんりょう)が三代将軍徳川家光から芝の寺地を拝領し、翌年に金地院(図3-2-4-1)の移転が完了している(『大日本史料』『京都金地院公文帳』)。

図3-2-4-1 金地院
芝公園三丁目


 元和五年九月に崇伝が二代秀忠から僧録(そうろく)に任じられて以来、歴代の金地院住持は幕府から僧録(僧録司(そうろくし)とも)に任じられ、臨済宗五山派を統括する立場にあった。崇伝以降の住持も、京都と江戸を往復しつつ執務に当たった。このことは、既に活字化されている崇伝の日記(『本光国師日記』)や最岳元良の日記(『近世仏教』第三~六号に「金地日録」として掲載)からもわかる。また、住持のもとで役者が、触の伝達や幕府寺社奉行への訴願の取り次ぎ、同奉行との交渉といった様々な業務を担った。
 東京都公文書館には、芝金地院に伝来した史料群が所蔵されている(芝金地院文書)。この中には、僧録司の日記(「金地日録」 *)や役者の日記(「金地役者雑記」 * 「記録」など)も多く含まれており、金地院の担った職務が詳細に判明する。また、臨済宗五山派の「本末牒(ほんまつちょう)」が確認できるほか、「金地院公用留(こうようどめ)」 * からは、各地の五山派寺院の宗門改の結果が金地院に上申され、寺社奉行所に報告されたこともわかる。芝金地院文書は、京都金地院文書や東京大学史料編纂所所蔵「金地院記録」と共に活用が望まれる史料群である。