浄土宗鎮西派では関東十八檀林と呼ばれる一八か所の檀林が整備されたが、芝の増上寺はその筆頭に位置した。幕府はこの点と関わっても増上寺を支援している。早くは徳川家康が、慶長一四年(一六〇九)に大和円成寺(えんじょうじ)(真言宗)から高麗版大蔵経(だいぞうきょう)を献上させて、これを増上寺へ納めた。家康はまた、翌年に伊豆修禅寺(しゅぜんじ)(曹洞宗)から元版大蔵経を、慶長一八年に近江菅山寺(かんざんじ)(真言宗)から宋版大蔵経を、それぞれ増上寺へ寄付させている。そして円成寺・修禅寺・菅山寺には家康から寺領が寄進された(『大日本史料』)。経典をはじめとする書物や修学規定が整えられていった増上寺には、各地から所化(しょけ)(修学・修行中の僧侶)が集まり、最盛期には約三〇〇〇名が在籍したという。彼らの宿舎であった学寮については、本章三節を参照されたい。
港区域の曹洞宗では、泉岳寺の学寮や青松寺(せいしょうじ)の学寮(獅子窟(ししくつ))が知られている。図3-2-5-1は『江戸名所図会』(天保五~七年〈一八三四~一八三六〉刊)から泉岳寺の挿絵(さしえ)を抜粋したものである。中央の左寄りに学寮が確認できる。本堂・方丈は右上で、左上には四十七士の墓が見える。一方、同書の青松寺の挿絵には学寮の文字が入っていないが、「諸宗作事図帳」(文久三年〈一八六三〉ほか、国立国会図書館所蔵)の同寺の図面(同年)からは、学寮・講堂が確認できる。これらの施設は、惣門(そうもん)(総門)を入って右手に位置していた。なお、「諸宗作事図帳」の泉岳寺の図面(同年)にも学寮・衆寮(しゅりょう)が描かれている。
図3-2-5-1 『江戸名所図会』より泉岳寺
国立国会図書館デジタルコレクションから転載(部分)
こうして江戸時代に教学機関が整備されることで、諸宗の教学が興隆し、明治時代以降の教学の基盤ともなった。書物文化の発展も、教学の興隆と密接に関連していた。寺院では蔵書が蓄積され、経典・教義書・高僧伝などの出版も寺院や民間書肆(しょし)(書店)によってなされた。