格式の概要と増上寺・知恩院の事例

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 最後に、本節二項で挙げた④の寺院・僧侶の格(等級)に関する制度について述べたい。公家の子弟が入寺する門跡寺院に見られるように、教団の最上層部が朝廷・公家社会とつながって寺院が序列化され、教団内部にも独自の寺院の序列が形成された。幕府や藩との間での寺院の格式もあった。また、朝廷から任じられる僧位(そうい)・僧官(そうかん)(前者は法印(ほういん)・法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)、後者は僧正(そうじょう)・僧都(そうず)・律師(りっし))などの僧侶の格も存在する。色衣(しきえ)を着る権利や寺院住持としての在職も、僧侶の格を示す。
 ここで、浄土宗をはじめとするいくつかの事例に注目したい。まず慶長一三年(一六〇八)一一月、幕府の要請を受けて朝廷(後陽成(ごようぜい)天皇)は増上寺を勅願所(ちょくがんじょ)(朝廷の祈願を担う寺院)とし、住持が代々紫衣(しえ)を着ることを勅許した。当時の住持は源誉存応(げんよぞんのう)(慈昌(じしょう))であったが、彼は同一五年七月、幕府の要請を受けた朝廷から普光観智国師(ふこうかんちこくし)の称号を贈られ、御礼の挨拶に参内している。
 一方、京都の知恩院では慶長一四年に住持の満誉尊照(まんよそんしょう)(九華)が僧正・法印となったが、元和元年(一六一五)の浄土宗法度(本章一節二項参照)で宮門跡(みやもんぜき)が設置されたのを受け、同五年には後陽成天皇の第八皇子直輔親王(ただすけしんのう)が満誉尊照のもとで得度(とくど)し、初代門跡(良純(りょうじゅん)入道親王)となっている。直輔親王は元和元年に徳川家康の猶子(ゆうし)(形式的な家康の子)にもなっていた。このように、浄土宗では幕府とのつながりのもとで、知恩院・増上寺やその住持が朝廷と関わる格式を得ている。