他宗においても、俗人が出家し、所定の段階を経て各地の寺院を継職・転職する場合が多かったが、真宗の場合は僧侶が妻帯(さいたい)(結婚)し、世襲(養子を含む)により住持を継承した。真宗僧侶の場合は、出身寺院の寺格に規定される面が大きいと言われる(朴澤 二〇一四)。
寺格については、寺院の由緒書にも記されている。例えば、麻布善福寺所蔵「当山開基由書(ゆいしょ)」(『本願寺教団史料』関東編)では、亀山院(亀山天皇)から勅願寺の勅許を得たと主張され、徳川家康や以後の将軍から朱印状を与えられ、江戸城での独礼乗輿(どくれいのりこし)(乗輿とは江戸城登城時に輿に乗ることができる格式)や、将軍代替わり時のお目見え、将軍の中陰(ちゅういん)法要(死後四九日間に行う法要)時の納経を許されていることなどが記されている。こうした朝廷・幕府関係の格式は、宗派を超えて影響力を持ち、各教団内においても有利な地位をもたらすものであったため、その維持・向上が寺院・僧侶によって志向された。
こうした動向に対応しつつ、幕府側では独礼寺院・朱印地寺院の納経に関する規定を設けて寺院に通達している。このことは、日蓮宗の二本榎承教寺に伝来する記録中でも確認できる(大田区史編さん委員会編 一九八一)。
幕府との関係においては、諸宗の間におおむね天台宗・浄土宗・真言宗・臨済宗・曹洞宗・黄檗宗・時宗・日蓮宗・真宗・修験の順番での、緩やかな序列が生み出された(時宗が真宗の次とされることもあった)。天台宗と浄土宗が初めにくるのは、将軍家の菩提寺の宗派であったことによる。このような宗派の序列は、一定の社会的影響力を持った。
一方で、それぞれの宗派においては自宗を中心に位置付けるような立場が保持され、それにふさわしい格式も追求された。この点と関わっては、「浄土真宗」という宗派名をめぐる浄土宗と真宗との争いが特に注目される(宗名(しゅうみょう)論争)。この争いにおいては、「浄土真宗」という宗派名を公式に勝ち取るために、先例などを掲げて自宗の正当化がなされた。このように諸宗は、幕府の支配下で一定の対立・競合関係を伴いながら併存していたのである。 (上野大輔)