参勤交代の制度化によって、大名家は江戸に屋敷を構えることになり、江戸で生まれた子女や正室、大名家の当主自身の葬地が必要となった。さらに、江戸で滞在する当主や居住する隠居・家族による先祖供養のために、すべての家族の位牌(いはい)所も不可欠となった。このため、各大名家は江戸に菩提寺・位牌所をもうけることとなった。文化五年(一八〇八)版の『武鑑』によれば、江戸府内で大名家菩提寺となった寺は一〇五か寺あった。これは、江戸の寺院九七八か寺の一一パーセントにあたる(岩淵 二〇〇四)。
港区内には、江戸の寺院の約四分の一にあたる二五二か寺が存在したが(本章二節一項参照)、このうち一二パーセント、大名家菩提寺の約三分の一にあたる三一か寺のほか、佐賀藩下屋敷内にあったいわば大名家専用の菩提寺である賢崇寺(けんそうじ)を加えた三二か寺があった。さらに、大名家の約三分の一にあたる九八家がこの港区内の三二か寺を菩提寺としたのである。特に東禅寺(臨済宗)は一四家、天徳寺(浄土宗)は一一家、泉岳寺(曹洞宗)は九家、青松寺(曹洞宗)も九家と集中している。このうち東禅寺・泉岳寺・青松寺と、金地院(臨済宗)、瑞聖寺(黄檗宗)は触頭寺院であり(本章二節四項参照)、有力寺院が大名家の菩提寺であったことがうかがえる。その多くは、寺の起立の段階から、大名家と関係を持っていた。例えば、寺名・山号等が開基の大名家の者の姓名・院号・法名に由来する「命名慣行」が認められる寺院が六か寺あった(松光寺・賢崇寺・梅窓院・玉窓寺(ぎょくそうじ)〈岩淵 二〇一四〉・広岳院・青原寺)。また、幕府編纂の『御府内寺社備考』や『寛政重修諸家譜』などから、六か寺は大名開基(本節一項の瑞聖寺と青木重兼など)、二か寺は大名が中興開基で、このほか増上寺の子院(清光寺 本章三節四項参照)など将軍との関係で成立した寺が確認できる(岩淵 二〇一一)。