真田家と盛徳寺

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 では、信濃松代藩真田(さなだ)家が菩提寺とした赤坂の盛徳寺(せいとくじ)(現在は神奈川県伊勢原市に移転)について、文久二年(一八六二)七月二日に一歳九か月で没した、真田家の九代当主幸教(ゆきのり)(一八三五~一八六九)の嫡子豊松(豊隆院)の葬儀をみてみよう(岩淵 二〇〇四)。死去した翌日の午後七時より盛徳寺の住職が来て読経が始まり、午後八時に遺体を湯で洗い清めた(湯灌(ゆかん))後、納棺となった。四日には、九日まで江戸屋敷内の普請の中止、一七日まで鳴物や殺生を停止する、いわゆる鳴物停止が家中に対して命じられた。そして、豊松の遺体は死後九日間も屋敷におかれた。この間、弔問客が屋敷を訪れ、盛徳寺の僧が毎日交代で読経を続けたのである。やがて一一日の朝七時に行列を組んで出棺となり、盛徳寺へ土葬された。出棺の行列は、通常の供出よりも「一層上位の格式に擬するのが常」であった(『徳川盛世録』)。この後、初七日から五七日法事を併せて、一七日・一八日に盛徳寺で執行した。さらに、豊松の守役が三七日・四七日・初月忌・五七日に参詣を行い、四十九日より百箇日までの法事が、八月二一日・二二日の両日にまとめて行われた。
 以上の葬儀に際し、真田家は消耗品のほか、本堂の内外を飾る幕や長押(なげし)華・ぼんぼり・幡(はた)や来客の接待用の食器、位牌(いはい)や棺(龕(がん))の前に添えられる造花、見台(けんだい)にかける打敷(うちしき)(仏具などの敷物)、棺を囲む幡(ばん)など、夭折した嫡男であっても多くの品々を調えている。六代正室(嘉永七年〈安政元・一八五四〉没)の葬儀では、その経費はおよそ金五五〇両に、七代藩主幸専(文政一一年〈一八二八〉没)の葬儀から百箇日法事までの経費は金八八四両に上った。
 また、盛徳寺には、国元に葬られた当主や当主格の者、他の宗派の寺に葬られた三・五・六代の正室の位牌も置かれ、明治七年(一八七四)の時点で、計六七本もの真田家の位牌が安置されていた。このように、国元の菩提寺よりも、むしろ江戸の菩提所に大名家のすべての位牌が置かれ、江戸の菩提寺は大名家の先祖供養の場として重要な機能を果たすこととなったのである。旧松江藩松平家の家令は、大正期に江戸天徳寺の墓所を「本墓」、国元の月照院の墓所を「支墓」と呼んでいた(西島 二〇一五)。また、大名家の菩提寺の本堂の内部は荘厳さを意識して作られ、さらに境内で接客空間の占める割合が高くなっていった(本章五節二・三項参照)。大名家の菩提寺にとっても、経営上、大名家との関係は大きな意味を持ったであろう。