一方、大名の家臣、特に江戸に常駐した定府の藩士(二章一節一項参照)も江戸に菩提寺が必要となった。幕末の鳥取藩の場合、文久二年(一八六二)の参勤交代緩和令に基づいて帰国を命じられた者の記録などから、四七例(うち四例は江戸の菩提寺が未記載)、二三か寺が確認できる(岩淵 二〇一七)。特に目立つのは、一三家が集中する浄土宗の天徳寺子院光岳院(こうがくいん)である。このほか、曹洞宗の有力寺院泉岳寺の三つの子院(四家)、曹洞宗の保安寺(ほあんじ)(四家)、増上寺の子院(三家)、曹洞宗の有力寺院青松寺の子院(二家)などが複数の家の菩提寺となっており、残る一四か寺は各一家の菩提寺となっていた。江戸定府の菩提寺が多様であったことがうかがわれる。藩主家が関係した増上寺・青松院も子院が異なることから、定府の菩提寺は、藩主家が関係する寺院とは関連性がないとみてよかろう。また、所在地は芝・麻布・西久保(現在の虎ノ門付近)・高輪(現在の高輪)・貝塚(現在の赤坂付近)など、ほとんどが江戸の南部の現港区域であった。ただし、芝や品川には鳥取藩の下屋敷が所在していたが、寺院の所在地は江戸屋敷の近隣とは限らない。藩士の菩提寺は、家ごとに形成されたと考えられる。
さらに、光岳院については、寺檀関係に限らず、江戸で亡くなった藩士・奉公人の葬送先として、多数の鳥取藩関係者も葬られていた。安政五年(一八五八)八月以降の「過去帳」によれば、明治元年(一八六八)までの約一〇年半で全被葬者は計六五六人、内訳は、成人男性五一三人(七八パーセント)、成人女性四〇人(六パーセント)、子供が九三人(一四パーセント)、光岳院の僧侶ほか一〇人(二パーセント)で、圧倒的に成人男性の割合が高い。また、戒名に着目すると、院号の付くもの(居士+院号、信士+院号、大姉+院号)は七〇人(一一パーセント)に過ぎない。一方、鳥取藩関係者は全体の半分(三三五人)、岡山藩関係者が四分の一(一六〇人)を占め、両者で全体の七五パーセントを占めている。このほか、武家と思われる被葬者が四六人で、全体の七パーセントであった。
鳥取藩のうち、苗字のある者は一二九人で、身分が確定できた五四人は、いずれも徒(かち)など下級藩士の家である。うち一八人は江戸定府一二家の者で、妻が三人、子が四人含まれている。一一人については石塔が建てられ、「先祖」もしくは「先祖ノ下」という説明書きのあるものが四人見られる。彼らは、光岳院を菩提寺としていたと考えられる。江戸定府以外の者は、国元から江戸に勤番中に亡くなった者と考えられ、特殊な例では戊辰戦争の戦死者二一名が葬られていた。また、苗字のない二〇七人は、藩もしくは上級家臣が国元から連れてきた奉公人であった。幕末の光岳院はいわば武家、とりわけ岡山藩・鳥取藩の下級藩士・武家奉公人の寺だったといえよう。
このように、大名および大名家臣の菩提寺が数多く見られたことは、港区域の寺院の特色の一つと言えるだろう。なお、大名家の墓所の発掘調査の成果については、本章六節三項および同節コラムを参照していただきたい。
(岩淵令治)