はじめに-江戸時代の増上寺を現代の町なみから再発見する

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 近世の江戸には三大寺院と呼ぶべき巨大寺院があり、今日に継承されている。浅草寺・増上寺・寛永寺である。江戸幕府の保護を受け、広大な境内地を有していた。明治維新の際、これらは新政府の政策によって、浅草公園・芝公園・上野公園となり、近代的都市への変化を求められ、また昭和二〇年(一九四五)の空襲で被災した。現在は三者三様に旧領域内の一角で寺院境内を確保し、周辺の旧境内領域を含め、江戸期以来の建造物・旧跡などが点在することで、江戸期の面影を伝承している。これらの中で、港区に所在するのが増上寺である。
 増上寺は中世に創建され、当初、貝塚と呼ばれた東京都千代田区内に所在していた。やがて徳川家康の関東入国に際して徳川家の菩提寺とされたことを契機に、芝の地に移転してきた。中央部の伽藍(がらん)や江戸前期における将軍霊廟領域としての南廟、江戸後期には北廟が造営されて栄華を誇り、複数の将軍や徳川氏関係者の埋葬によって幕末まで境内の拡張が続いた。その最終広さは約五九ヘクタール、東京ドーム約一二個分であった。
 現在も当地一帯は市街地や都市公園として開発が止まないが、地上を見れば、近世の歴史を伝える建造物・山内寺院・旧跡・街路など、多くの江戸の記憶が分布する。これらを今日の地図上(図3-3-1)に示し、本節末に一覧表とする(表3-3-1)。これらの残存状況は、浅草寺と寛永寺の旧領域と比べてその広がりや骨格をよく示している点で重要である。
 増上寺とは、伽藍と霊廟、それらを護る山内寺院群、大僧正の居所や将軍謁見(えっけん)の間がある本坊、檀林として僧侶を養成した学寮など、複合的に構成された境内をもち、仏教寺院として民衆に開くだけでなく、将軍家と江戸幕府のために多様な任務を担う人々が集う、小さな都市のような空間であった。僧侶をはじめとする居住者は三千人を超えていた。
 大正一二年(一九二三)の関東大震災や昭和二〇年(一九四五)の東京大空襲により被災し、開発の止まない東京において、江戸の面影を残す場所は少なくなった。最後の砦は寺社である。約九〇〇メートル四方に拡がる増上寺旧境内領域は、その歴史を体感できる希有な場所である。
 本節では、以下、伽藍・霊廟(一項、二項)、境内、関係附属地(三項)の順に増上寺の空間を見たうえで、現存する旧跡や山内寺院などから江戸期の境内空間を回顧したい(四項)。

図3-3-1 増上寺旧境内における歴史的建造物や旧山内寺院・史跡等の分布(港区芝公園一帯)
伊坂道子『芝増上寺境内地の歴史的景観』(岩田書院、2013)附図を転載 一部加筆

図3-3-1-1 増上寺創建の地推定図(部分)
「麴町永田町外桜田絵図」をもとに作成