中世までの増上寺は貝塚村(現在の東京都千代田区紀尾井町・平河町付近)にあり、江戸氏の館の西側であった。
「貝塚」の地名は文政期(一八一八~一八三〇)にすでに残っていなかったが、「増上寺の旧地」として江戸・明治期に語り継がれた場所がある。『三縁山志』では「今、麴町平川天神の西より喰違のあたりなり」とある。古図から参照すると、喰違見附跡から紀尾井坂、清水谷坂、平川天満宮へと至る西側の一帯である(図3-3-1-1)。隣接していた江戸氏の館跡には、その後太田道灌(どうかん)による江戸城が築かれた。喰違見附跡から見下ろす濠(ほり)は「貝塚濠」である。
天正末期頃(~一五九一)の増上寺境内は、寺中に書籍の閲覧場として廣度院(こうどいん)、法主の隠居所として創立された瑞華院(ずいけいん)・花岳院(かがくいん)・天光院(てんこういん)などがすでにあり、学寮も設けられた大寺であった(図3-3-1-2)。
図3-3-1-2 貝塚旧跡図『三縁山志』