徳川家康が源誉存応(普光観智国師)に帰依

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 天正一八年(一五九〇)、豊臣秀吉から関八州への転封を命じられた徳川家康は、江戸城入城当日に、当時の住持(住職)であった増上寺一二世・源誉存応(げんよぞんのう)を訪ね、師檀(しだん)の契約を交わして増上寺は徳川家の菩提寺となった。家康の出身地である三河の松平家は代々浄土宗で、応仁元年(一四六七)に同宗の大樹寺(だいじゅじ)を開き菩提寺としていた。
 江戸入国後の家康は、天台宗寺院としてすでに名声のあった浅草寺も徳川氏の祈願所に定めた。やがて家康による江戸城の堀や城下の拡張工事が始まった。
 また『三縁山志』では否定されているが、増上寺は現在地の芝に移る以前、日比谷に転じたとする古説が多い。増上寺は一時、貝塚から日比谷あたりに移転した可能性がある。