芝へ移転-江戸の郊外へ

356 ~ 357 / 499ページ
 慶長三年(一五九八)八月、増上寺にも城下を離れるための、候補地選びの命が下りた。住持存応と僧侶不残(ふざん)が、芝の地を薦めた際の言葉として「蒼翠(そうすい)の鬱林この地にかぎれり。殊に後には圓山観音山地蔵山つゞき列り、左には櫻川流れ、右には赤羽の内大道にして、前は蒼海の濱ちかく松原見へて、四神相応の勝境たれば奕世無變(えきせいむへん)の霊地たるべき」とある。城から南へ一里離れた当地は、丸山から北へ愛宕山方面にまで連なる丘陵と、海岸が望める平地を併せもち、水と緑に恵まれて、神聖さを感じさせる場所であったと思われる。
 当時、芝村(または柴村)は海辺の一帯で葦が生い茂り、金洲崎(のちの金杉)には船家業を営む者もいた。また増上寺境内となった場所にはすでに稱名院(しょうみょういん)や、のちに山内寺院となる天陽院・常照院などの寺があり、芝神明宮(現在の芝大神宮の前身)もあったと伝えられる。移転が決定されたのは慶長三年(一五九八)であった。天正一八年(一五九〇)に旧江戸城に接する局沢(つぼねざわ)・平川などから江戸城下近傍にひとまず移転した寺院群とは異なり、増上寺の移転先は、その地位を固めつつあった徳川氏の菩提所に相応するものとして、それまでの城下寺院の移転先としては稀であった芝の地が、聖域として慎重に選定されたことがうかがえる。
 浄土宗寺院は、家康旧領の三河などから江戸に集まった。また慶長七年(一六〇二)には、家康生母水野氏(於大(おだい))を小石川伝通院に葬るなど、浄土宗は増上寺を頂点として、江戸最大の宗派となっていった。