東向き伽藍配置と東海道に結ばれる大門通り

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 増上寺の伽藍造営は、慶長一六年(一六一一)までには完成した。境内の中心に三解脱門(さんげだつもん)(本節では以下「三門」 図3-3-1-3)を置き、西に本堂、東へ表門(大門 図3-3-1-4)と、東向きに一直線をなす伽藍配置は、家康が築いた江戸城が、大手門を真東向きとする配置を倣ったものであった。また老若男女が容易に本尊に詣でられるように参道を平地に開くことは、民衆を重んじる浄土宗の伽藍配置として、以後の規範になった。法然が開いた浄土宗は、それまでの仏教と異なり、民衆に布教が及んだことが特色であった。三門から北の参道には裏門(北門、後に御成門 図3-3-1-5)を構え、江戸城からの将軍参詣を迎える門となった。二つの参道に面して坊中(子院(しいん))一三院が置かれ、街区の奥には学寮も成立していた(図3-3-1-6)。

図3-3-1-3 増上寺三解脱門(明治期)
東京都江戸東京博物館所蔵 現存

図3-3-1-4 大門(明治期・両国回向院へ移築後戦災焼失)
東京都江戸東京博物館所蔵 昭和12年鉄骨鉄筋コンクリート造で再建

図3-3-1-5 御成門(明治初年)
東京国立博物館所蔵 研究情報アーカイブズから転載 現存

図3-3-1-6 元和十年存虎図『三縁山志』(右が北)


 大門通りは、大門から境内を出てさらに東へ直進し、東海道に連なり、その街道沿いに浜松町が成立した。家康は、江戸の台地上にあった旧来の東海道を海浜側に変え、旧道との結節点を金杉(柴村新宿(しばむらしんしゅく))としたのである。金杉以北の新しい東海道は、江戸城下の日比谷入江を埋め立て成立させた市街地と結ばれ、日本橋通りまで直線道路をなし、新しい町割りの中心となった。こうした東海道整備と増上寺造営は同時期であり、江戸の町づくりの一環として、東海道が大門の通りと直交し、東海道の浜松町からは増上寺本堂と後方の緑地までをまっすぐに見通すことのできる参道が形成された(図3-3-1-7)。

図3-3-1-7 増上寺伽藍と東海道 (右が北)
「新板江戸大絵図」『古板江戸図集成』をもとに作成