徳川氏菩提のために造営が始まる

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 徳川家菩提寺としての墓所建立は、慶長一二年に家康四男である松平忠吉(性高院)の位牌堂が建てられたのが、その最初となった。場所は、本堂の北にならぶ方丈の後方となる地蔵山の麓であった。
 元和二年(一六一六)には、家康が薨去(こうきよ)(親王または三位以上の人が死ぬこと)した。遺言により葬礼は増上寺で執行されたが、亡骸(なきがら)は久能山に、翌年日光に遷座(せんざ)となった。家康は、自らが日光山に鎮座することで、関東八州の守り神になると告げたのであった。朝廷対策に重用されていた天海は、天台の山王神道を主張し、家康に東照大権現の神号が勅許されて「東照宮」が尊称となった。しかし、増上寺は家康の法名である「安国院殿(あんこくいんでん)」を尊称とし、元和三年に安国殿が本堂後方に造営され、江戸期を通じて仏式で家康を祀っていた。その別当として、山内に安立院(あんりゅういん)が置かれた。以後、東照宮は、日光以外にも、久能山・江戸城紅葉山・尾張と水戸と和歌山(徳川御三家)・上野など、全国各地に続々と勧請されている。増上寺安国殿は寛永一〇年(一六三三)に改築され、旧建物は開山堂として再生され、さらに寛永一八年(一六四一)に、丸山東中腹に第三次の安国殿(図3-3-1-8)が建立された。

図3-3-1-8 芝東照宮社殿拝殿
かつての呼称は増上寺安国殿、明治初年より芝東照宮に改称。
奈良文化財研究所所蔵 戦災焼失