南廟の成立と山内の充実

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 また、寛永三年(一六二六)に逝去した二代秀忠室浅井氏(江(ごう)、崇源院(すうげんいん))の霊牌所が境内丸山に営まれた。当初のこの建物はのちに鎌倉に移建され、現在建長寺仏殿として現存している(図3-3-1-9)。安国殿同様に、位牌を祀る本殿と、これを参拝する拝殿をつなげない、単立形式の仏殿であった。

図3-3-1-9 建長寺仏殿
建長寺所蔵 現存


 寛永九年(一六三二)には、二代秀忠(台徳院)が薨去した。遺言により増上寺にて密葬され、やがて三代将軍徳川家光により台徳院霊廟が造営される(本章六節二項も参照)。北からの参道・御成道の南付きあたりで極楽橋を渡り右折し、平地部には霊廟入り口である惣門(そうもん)(現存 写真本章五節図3-5-1-2)、次いで勅額門(ちょくがくもん)、参道の両側は一対の水盤舎(すいばんしゃ)が置かれた。中門(唐門)を経て、丘陵中腹には、拝殿と本殿を廊下状の相之間(あいのま)でつなぐ権現造(ごんげんづく)りの御霊屋(おたまや)が建立された(図3-3-1-10)。そして南方へ丘を登り天人門を経て、丸山頂部に墓所である八角形覆屋(おおいや)のある奥院宝塔(ほうとう)を置く構成となっていた。江戸にて将軍を葬るのは初めてであったが、寛永一三年(一六三六)に、三代家光により造替された日光東照宮に先行して、江戸幕府作事方が総力を結集した壮麗な建築群となった。また丸山山頂には五重塔(図3-3-1-11)も造営された(図3-3-1-13参照)。正保四年(一六四七)に造替された崇源院霊牌所(図3-3-1-12)も権現造りで、将軍正室の墓所として最大級の、台徳院霊廟と遜色ない規模と結構(こしらえ、意匠)であった。丸山麓には崇源院別当の最勝院、台徳院別当の宝松院(ほうしょういん)と恵眼院(えげんいん)が創建された。

図3-3-1-10 台徳院霊廟本殿内部
奈良文化財研究所所蔵 戦災焼失

図3-3-1-11 五重塔
東京都公文書館所蔵 戦災焼失

図3-3-1-12 崇源院霊碑所
奈良文化財研究所所蔵 戦災焼失


 御霊屋の建造物群が整うと増上寺の職務は充実し、法要には京都黒谷から呼び寄せた声明(しょうみょう)(仏典に節をつけた仏教音楽)の僧も加わった。法要挙行を担う山内寺院である坊中は、大門通りの両側と、御成道東側とその後方に数を増やし、一七世紀後期までに延べ三〇院となった。浄土宗僧侶の養成機関として関東に一八か所が設けられた「檀林」において、増上寺はその首座となり学寮地も増加していた。裏門は、将軍の御成の時以外は閉門されたため、いつしか御成門(おなりもん)と称されるようになった。江戸城から増上寺の御成門に到着した将軍は、入ってすぐの本坊内の装束の間で正装に着替え、法要に臨む。参詣に同行した御三家・大名各家は、山内寺院を宿坊として利用し、休息や着替えをした。将軍参詣の日には、山内を挙げて準備し法会を挙行し、境内の二つの参道に諸大名が行き交う特別な日であった。「江戸図屛風」の増上寺部分では、正装した大名と御供衆の長い行列に先導され、台徳院御霊屋(当時は御仏殿と呼ばれた)へ参詣にむかう三代家光の輿が三門前に描かれる(図3-3-1-13)。

図3-3-1-13 「江戸図屛風」(増上寺部分)
国立歴史民俗博物館所蔵