図3-3-1-14 増上寺寛永本堂
横浜美術館所蔵 明治6年(1873)焼失
また寛永一七年(一六四〇)、御成道には松原が造営され、伽藍の火除けと防御・景観整備が促された。翌年、方丈の北側にあたる伊達屋敷の地を編入し境内を拡張、御成門も北へ移動した。境内北東部も肥前佐賀藩鍋島家、豊後森藩久留島家、鍋島市之丞の屋敷地が境内編入になり、三家の苗字にある「島」をとって三島谷と呼ばれた。
拡張する増上寺境内は、表門(大門)には門前の町人地、裏門(御成門)には武家地という、性格の異なる二つの接点で江戸市中につながっていた。(図3-3-1-15)
図3-3-1-15 三縁山旧図(右が北)
増上寺所蔵 一部加筆
慶安四年(一六五一)三代家光が薨去して日光に埋葬され、寛永寺にも位牌を祀る大猷院(たいゆういん)霊廟が造営された。この時から、江戸の将軍菩提所は芝と上野の二か所となった。