寛永期の境内変化

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 三代家光は、寛永元年(一六二四)、天海に江戸城の北東にあたる上野に天台宗の東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)を開かせ、徳川家祈禱所とした。その結果、江戸城の鬼門の方角に寛永寺、裏鬼門に増上寺という、風水的な軸線が形成された。また寛永一一年(一六三四)には増上寺方丈、本堂も建て替えを命じた(図3-3-1-14)。本堂は、高さ約三七メートルで、元禄一〇年(一六九七)建立の寛永寺根本中堂(こんぽんちゅうどう)の高さ(約三二メートル)と遜色ないものであったことがうかがえる。彩色が施され、彫刻が豊かな大規模本堂であった(郷土歴史館所蔵「芝増上寺本堂御内陣彩色仕本」 *)。増上寺では近世を通じて、本尊を安置し参拝者を受容する当該堂宇を「本堂」と称している。大正期(一九一二~一九二六)以後「大殿」と称されるようになった。

図3-3-1-14 増上寺寛永本堂
横浜美術館所蔵 明治6年(1873)焼失


 また寛永一七年(一六四〇)、御成道には松原が造営され、伽藍の火除けと防御・景観整備が促された。翌年、方丈の北側にあたる伊達屋敷の地を編入し境内を拡張、御成門も北へ移動した。境内北東部も肥前佐賀藩鍋島家、豊後森藩久留島家、鍋島市之丞の屋敷地が境内編入になり、三家の苗字にある「島」をとって三島谷と呼ばれた。
 拡張する増上寺境内は、表門(大門)には門前の町人地、裏門(御成門)には武家地という、性格の異なる二つの接点で江戸市中につながっていた。(図3-3-1-15)

図3-3-1-15 三縁山旧図(右が北)
増上寺所蔵 一部加筆


 慶安四年(一六五一)三代家光が薨去して日光に埋葬され、寛永寺にも位牌を祀る大猷院(たいゆういん)霊廟が造営された。この時から、江戸の将軍菩提所は芝と上野の二か所となった。