将軍埋葬の行方

363 ~ 364 / 499ページ
 延宝八年(一六八〇)には、四代将軍徳川家綱(厳有院(げんゆういん))が薨去した。上野への将軍葬送を知った増上寺は幕府に抗議し、家康以来の浄土宗の立場を上申した。寺の大衆や同門寺院までが注視する問題となったが、幕府より伝えられた上意は、寛永寺埋葬は四代家綱の遺命であり、将軍の法要は増上寺にても位牌を立て、執行すべしとのことであった。寛永寺には厳有院霊廟が造営された。
 その後、天和三年(一六八三)以後、本堂の北に浄徳院(五代将軍徳川綱吉子・徳松)をはじめとする徳川家子女の墓所と、別当の岳蓮社が創建され、元禄一一年(一六九八)、霊仙院(尾張光友室・三代家光女)墓所と別当の松蓮社が、また、宝永元年(一七〇四)に明信院(紀伊綱教室・五代綱吉女)の墓所と別当の鑑蓮社が創建された。これらの三か院を三蓮社別当という。
 宝永二年には桂昌院(五代綱吉母・本庄氏)が逝去し、仏殿(霊牌所)(図3-3-1-16)が増上寺本堂北西側に営まれ、これを護り管理する別当として仏心院が創立された。同時に将軍の命により霊牌所の傍らには念仏殿として、のちに別院となる恵照律(えしょうりつ)院が建てられた。別院は、坊中や別当とは異なり、独自の信仰対象と祠堂をもつものであった。

図3-3-1-16 桂昌院霊屋
東京国立博物館所蔵 研究情報アーカイブズから転載 戦災焼失


 また、寛永寺に四代家綱が埋葬となった一方、増上寺には、同年に、小石川伝通院より改葬された清揚院(せいよういん)(甲府宰相徳川綱重 一六四四~一六七八)霊廟(図3-3-1-17)が本堂後方の観音山に造営された。綱重は三代家光の三男であり、四代、五代将軍の弟にあたる。改葬の契機は、綱重の子・六代将軍家宣(いえのぶ)が、実子の継嗣(けいし)に恵まれなかった五代綱吉の後継者と決まり、江戸城に入ったことにある。綱重の死後二〇年以上を経て従二位の官位が贈られ、墓所も正式な霊廟とするため増上寺に改めて営まれたと考えられる。この御霊屋は歴代将軍のものと同様に、拝殿と本殿を相之間でつなぐ本格的な権現造りであった。別当は通元院で、御霊屋に従属するように観音山西麓に創立された。

図3-3-1-17 清揚院勅額門
東京国立博物館所蔵 研究情報アーカイブズから転載 明治期に解体


 五代綱吉は宝永七年(一七一〇)に薨去し、再び寛永寺に常憲院(じょうけんいん)霊廟が造営され、葬られた。将軍の埋葬先は芝か上野か、江戸の両寺院にとって重大視されていた時代であった。  (伊坂道子)