常憲院霊廟造営三年後の正徳二年(一七一二)に六代将軍徳川家宣が薨去すると、こんどは墓所が増上寺に定められた。六代家宣の遺言によれば、家光、家綱、綱吉と三代続けて上野に葬られたことで、増上寺に埋葬されている二代将軍徳川秀忠の忌日(きにち)が忘れられがちになっていることを憂い、芝を選んだのであった。
「文昭院様御佗界御入棺御法事之写」(祐天寺所蔵)では、江戸城からの葬列の経路などが知られる。六代家宣出棺の当日、葬礼の行列は、江戸城桔橋門(はねばしもん)内での将軍回向から始まった。桔橋門から増上寺への道筋は、半蔵門を通り彦根藩井伊家上屋敷前、米沢藩上杉家屋敷、新シ(あたらし)橋、愛宕下薬師堂心福寺の横道、伊予松山藩中屋敷前、増上寺裏門の前を通り過ぎて、町人地へ出る。東海道宇田川町通り、大門の門前通り、そして増上寺表門からの入寺であった。将軍の葬列は増上寺御成門に進まず、町人地に出て、大門門前通りを進む演出がなされたのである。葬儀の導師は、増上寺三六世顕誉祐天(けんよゆうてん)であった。