文昭院霊廟造営と石垣土手普請

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 六代家宣を弔い、同年以降、増上寺山内は文昭院霊廟造営のため、境内地が再編され拡大となった。方丈を北に移動させ、跡地を霊廟用地とし、さらに赤羽川沿いの大道も山下谷学寮地として境内地に編入となった。
 文昭院霊廟の領域は、江戸中期としては稀に見る大規模な、石垣と土手による土木工事で形成された。当時の幕府手伝普請を担当した岡山藩池田家の記録によると、御成道に沿って石垣の土手を築き、霊廟入り口となる二天門とし、門正面の松原を切り開き、石垣による低い見附状の喰違いが造成された。二天門内の広場や本堂側との区画にも土手が築かれ、宝塔(墓所)の領域は、既存の桂昌院霊牌所と崇源院宝塔の墓域より上段の、地蔵山山頂を整地して造営された(図3-3-2-1)。新設の土手の土は、山頂に旧来からあった稲荷山を切り崩して用いたとみられる。下段の本殿領域から上段の宝塔領域に至る崖線の石垣と雁木(がんぎ)(階段)のため、大量の石材が増上寺松原に搬入され加工された。その原石数量は「御霊屋御用取木取石寄納高帳」によると「七千四百 八拾九本百坪五合」あまりの「御蔵石」、「八 千四百七拾弐本参拾坪五合」の「御買上石」であった。地業(地盤の整地)工事では、連日千人以上の人足や木遣師(きやりし)が集合し、正徳三年(一七一三)三月七日は一日だけで土木工事参加総数は二七 一一人であった(墓の発掘調査については、本章六節二項参照)。

図3-3-2-1 「増上寺新御霊屋之絵図」 * (右が北)
岡山大学附属図書館所蔵 池田家文庫


 このように文昭院霊廟は北廟形成の端緒となったが、丸山を含む自然地形を優先した南廟配置と異なり、接近する地蔵山の崖線を取り込む霊廟区域として、土手や石垣・急峻な階段などによって積極的に区画を創り出した。御霊屋の建築群も、勅額門(ちょくがくもん)に続く中門両側に翼廊を設け、拝殿までの一体感を強調するなど、密度の高い聖域を形成するものであった(図3-3-2-2、図3-3-2-3)。こうした境内造営に伴う江戸期の石垣の痕跡は、現在の芝公園の至るところに遺されている。また上述の普請記録から、建築技術においても、彫刻・錺金物(かざりかなもの)・漆・金箔など、より念入りとなっており、江戸後期の霊廟建築の深化をうかがうことができる(「文昭院様御霊屋御廟仕様帳」 *)。

図3-3-2-2 文昭院霊廟奥院(唐門と階段)
東京国立博物館所蔵 研究情報アーカイブズから転載 戦災焼失

図3-3-2-3 文昭院霊廟中門と翼廊
東京国立博物館所蔵 研究情報アーカイブズから転載 戦災焼失


 文昭院霊廟を護る別当としては、墓所の後方に真乗院が営まれた。その建築も池田家が担当する幕府工事によるものであった。