七代将軍も芝へ-北廟の完成

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 六代家宣が没して四年後の享保元年(一七一六)に、六代家宣の四男であった七代将軍徳川家継(有章院)が数え年八歳で薨去し、再び芝増上寺への葬送が命じられた。
 こうして翌年までに、有章院霊廟が文昭院霊廟の北に並列して造営されることにより、増上寺の北廟領域が完成した(図3-3-2-5)。造営年代が近いためか、有章院霊廟と文昭院霊廟の建築配置や形式はよく似ている。御成道に石垣と土手を造営し、下段の平地に御霊屋本殿、上段に墓所として宝塔拝殿と宝塔が営まれた。建築各部の彫刻は、文昭院よりさらに念入りになり、有章院勅額門の柱に刻まれた昇り龍と下り龍などは、戦前まで存在した著名な作品群であった(図3-3-2-6、図3-3-2-7、図3-3-2-8)。有章院の別当は瑞蓮院で、墓所の北側に営まれた。

図3-3-2-5 「増上寺惣絵図」(右が北)
([江戸城内并芝上野山内其他御成絵図])国立国会図書館デジタルコレクションから転載

図3-3-2-6 有章院二天門と前面に残る霊廟石垣
徳川家所有(建造物)

図3-3-2-7 有章院勅額門より中門をのぞむ
横浜開港資料館所蔵 戦災焼失

図3-3-2-8 有章院渡廊と拝殿
横浜開港資料館所蔵 戦災焼失