それ以後、増上寺には宝暦一一年(一七六一)に薨去した九代将軍徳川家重(惇信院(じゅんしんいん))が葬られた(図3-3-2-9)。その葬列も大門から増上寺へ入るものであった。葬儀の導師は増上寺四六世の妙誉定月(みょうよじょうげつ)で、宝暦一三年に九代家重の位牌を祀る別当の妙定院を建立した。
図3-3-2-9 有章院本殿に合祀される惇信院(左)
奈良文化財研究所所蔵 戦災焼失
その後、将軍墓所は寛永寺とある程度交互になり、増上寺には、嘉永六年(一八五三)に一二代将軍徳川家慶(いえよし)(慎徳院)、慶応二年(一八六六)に一四代将軍徳川家茂(いえもち)(昭徳院)が埋葬された。増上寺で弔った将軍としては最後の人となった(口絵9に慎徳院埋葬までの境内を示す)。
増上寺霊廟は昭和二〇年(一九四五)に戦災で焼失したが、当地に台徳院惣門・清揚院水盤舎・文昭院鋳抜門(いぬきもん)・有章院二天門などが罹災を免れ現存し(写真本章五節図3-5-1-2ほか)、不動寺(埼玉県所沢市)にも、台徳院勅額門・同天人門(御成門)・崇源院丁子門(ちょうじもん)などが移築保存されている。
増上寺における将軍埋葬以外では寛保元年(一七四一)に天英院(六代家宣室・近衛氏)、宝暦二年(一七五二)に月光院(七代家継生母・勝田氏)が逝去し、それぞれ崇源院廟、桂昌院廟に合祀となり、宝塔は文昭院廟と有章院廟に挟まれた間の場所に営まれた(図3-3-2-10)。その別当も天英院は最勝院に、月光院は仏心院にと兼務となった。
図3-3-2-10 将軍霊廟配置図(右が北)
伊坂道子編著『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』(境内研究事務局、2003)から転載