合祀される将軍霊廟

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 増上寺北廟完成以後、幕府による御霊屋建立禁止令が享保五年(一七二〇)に施行され、以後の将軍は既存霊廟本殿に位牌を納めた宮殿(くうでん)(建築の形をした厨子)で合祀(ごうし)し、墓所のみが新設される形式となった。それまで上野と芝では通算二六年のうちに将軍四名、清揚院(六代家宣の父綱重)を入れると五名の御霊屋本殿の造営を続けていたことになる。改革を発した八代将軍徳川吉宗は、自らも上野寛永寺の常憲院霊廟に合祀となった。これにより芝増上寺の有章院が徳川家将軍霊廟本殿造営の最後となった。
 それ以後、増上寺には宝暦一一年(一七六一)に薨去した九代将軍徳川家重(惇信院(じゅんしんいん))が葬られた(図3-3-2-9)。その葬列も大門から増上寺へ入るものであった。葬儀の導師は増上寺四六世の妙誉定月(みょうよじょうげつ)で、宝暦一三年に九代家重の位牌を祀る別当の妙定院を建立した。

図3-3-2-9 有章院本殿に合祀される惇信院(左)
奈良文化財研究所所蔵 戦災焼失


 その後、将軍墓所は寛永寺とある程度交互になり、増上寺には、嘉永六年(一八五三)に一二代将軍徳川家慶(いえよし)(慎徳院)、慶応二年(一八六六)に一四代将軍徳川家茂(いえもち)(昭徳院)が埋葬された。増上寺で弔った将軍としては最後の人となった(口絵9に慎徳院埋葬までの境内を示す)。
 増上寺霊廟は昭和二〇年(一九四五)に戦災で焼失したが、当地に台徳院惣門・清揚院水盤舎・文昭院鋳抜門(いぬきもん)・有章院二天門などが罹災を免れ現存し(写真本章五節図3-5-1-2ほか)、不動寺(埼玉県所沢市)にも、台徳院勅額門・同天人門(御成門)・崇源院丁子門(ちょうじもん)などが移築保存されている。
 増上寺における将軍埋葬以外では寛保元年(一七四一)に天英院(六代家宣室・近衛氏)、宝暦二年(一七五二)に月光院(七代家継生母・勝田氏)が逝去し、それぞれ崇源院廟、桂昌院廟に合祀となり、宝塔は文昭院廟と有章院廟に挟まれた間の場所に営まれた(図3-3-2-10)。その別当も天英院は最勝院に、月光院は仏心院にと兼務となった。

図3-3-2-10 将軍霊廟配置図(右が北)
伊坂道子編著『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』(境内研究事務局、2003)から転載