門前地など境内に接する付属地

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 境内の外側には、門前町が成立していた。大門の東側は、片門前、中門前、三島町、七軒町、などがあった。また境内西の新門前の地は、元禄一一年(一六九八)に増上寺が拝領したが、その後、文化三年(一八〇六)に火除(ひよけ)地となり、麻布に代地(だいち)(収容した土地の代替地)となった。涅槃門前の門前地である芝富山(とみやま)町(現在の虎ノ門三丁目)は、同年に境内火除地となり、代地に、誓願(せいがん)寺前・神田富山町(現在の東京都千代田区神田富山町、神田東松下町)を与えられた。残地も享保六年(一七二一)に召し上げとなり、西久保広小路(現在の虎ノ門三丁目、愛宕二丁目)の代地を与えられ、引き続き芝富山町と称した。永井町裏門前(現在の芝公園三丁目)は宝永三年(一七〇六)に境内火除地となり溜池の端に移り永井町代地となり、残地は金地院表門左右に移っていたが、さらに正徳三年(一七一三)、神田に代地を得て、神田永井町(現在の東京都千代田区神田富山町)となる。当該地は山内支配の幸稲荷(さいわいいなり)神社地と往来道敷となった。『三縁山志』によれば、これらの門前地はかつて増上寺行者の支配であったが、文政期(一八一八~一八三〇)は名主大久保藤兵衛などの支配となっていた。同様に文政年間の「芝町方書上」によると、こうした増上寺門前地は、公役銀と年貢の免除があり、毎月の人足賃銭と掃除役銭を増上寺へ差し出す決まりであった。
 また御霊屋御掃除屋敷は境内西側にあった。この北西に隣接する幸稲荷社(現存)は、かつては境内にあったが転出したもので、山内の鎮守と同等に供養されていた。
 その他、境内以外の所属地として挙げられたのは、涅槃門外の芝切り通し時の鐘、柵門(赤羽門)外西北の飯倉町(現在の麻布台一~二丁目、東麻布一~三丁目ほか)の内に台徳院の花畑地として拝領した御花畑などのほか、後述する崇源院(お江(ごう)の方)荼毘(だび)所との縁故を持つ大崎下屋敷、また麻布一本松隠居所である。