崇源院荼毘所と増上寺大崎下屋敷

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 昭和二〇年(一九四五)に戦災焼失した増上寺霊廟は、戦後に墓所の発掘調査をした後、現境内の北西に墓域を新設し「増上寺徳川家霊廟」として改葬された。歴代将軍や夫人が、集約された石造宝塔群のもとに眠っている。当時の発掘調査により、江戸期の芝霊廟埋葬者のなかで、火葬であったのは、崇源院だけであったことが判明している。この特筆すべき崇源院荼毘の当時の様相は、「大猷院(たいゆういん)殿御実紀」、「東武実録」などから知られる。
 寛永三年(一六二六)、お江の方(崇源院)の野辺の送りは、増上寺から西方に続く「浅布野(あざぶの)」と定められた。当時はまだ邸宅などもない、野原であったとみられる。火葬を行う「荼毘屋」(火屋)までは、増上寺からの距離一〇〇〇間(約一八〇〇メートル)で、菰(こも)の上に白布一〇反(畳の面積にして約六〇〇〇枚分)が敷かれ、葬送の「御道筋」となった。白張一〇〇人が担った龕(がん)(棺)の列は、僧俗の従者や、江戸城の女官たちの輿(こし)六〇挺など、参列者一〇〇〇人以上で道筋を埋めた。一間(約一・八メートル、以下本節のメートル法表記はすべて概数)ごとに、在府の諸大名家からの警衛、その外側をさらに足軽が守った。「御火屋」のまわりは六〇間(一〇八メートル)四方と一〇〇間(一八〇メートル)四方という二重の檜の垣根があり、各々四辺に門と額を構えた丹塗りの建築であった。周りを弓鉄砲衆が護り、火屋の右には六つの堂がおかれた。三二間(五七メートル)に積まれた沈香(じんこう)(香木)に火を放つと「香烟(こうえん)、十丁(一〇九〇メートル)余りに及べり」という光景であった。また道筋の右手には、葬送のために「龕前堂(がんぜんどう)」(屋外の参拝施設)が設けられていた。龕前堂は、間口五間(九メートル)、奥行き六間(一〇・八メートル)、高さ二丈七尺(八メートル)の吹き放しの建屋で、中は紙貼りで天人などが描かれていた。
 こうした浅布野の葬送経路から、増上寺および崇源院荼毘にかかる関係地が浮かび上がる。道筋は、増上寺の西側で、現在の麻布台から六本木へ向かう現在の外苑東通りであろう。「火屋」は現在の六本木交差点周辺(旧町名・麻布龍土町六本木)に位置する。増上寺からの距離も古記録と整合する。
『御府内寺社備考』や明治九年(一八七六)に提出された東京府知事宛の願書(『東京名所図会』)によれば、火屋(荼毘所)の跡地では灰塚を建て供養し、三回忌を行った四名の僧による功労が認められ、寛永六年(一六二九)に、増上寺末の深廣寺・光専寺・正信寺・教善寺が寺地を拝領した。芝原の地を開拓し、堂舎や門前町家三〇軒ほども興した。その後、寛文八年(一六六八)の火災で類焼し、また、道筋の拡幅などを経ながらも、明治以降も同地と近隣に所在した。戦後は、高速道路建設により、墓地や境内地が分散されたものの、四か寺は現代まで六本木の地で継承された(正信寺は平成一〇年〈一九九八〉に文京区小石川に移転)。
 一方、道筋にあった龕前堂については、「我善坊(がぜんぼう)谷」と呼ばれる地名として遺る。麻布我善坊町(現在の麻布台一丁目の一部)という町名も、港区の住居表示実施前は存在していた。各種の地誌では、江戸後期以来、崇源院葬送の龕前堂にまつわるこの地名由来について、肯定説(『江戸砂子』ほか)と、否定説(『紫の一本』ほか)がある。だが両説とも、火屋と龕前堂が別の位置に建つ施設であることが念頭にないとみられる。
 崇源院を葬送する道筋の途中右手は、一一年後の寛永一四年(一六三七)に、米沢藩上杉家の屋敷地となった(現在の外務省飯倉公館と旧麻布郵便局の場所)。上杉家の北隣は窪地で、一〇メートル以上の崖下に幕府御先手組屋敷が置かれていたが、その一帯が「我善坊谷」である。しかしながら、この窪地が葬列道筋になり龕前堂が置かれたとは考えにくい。前述の白布を敷く長大な列が迂回して深い窪地へ下り、再び六本木方面へ登るには階段があり高低差が甚だしいからである。龕前堂は高台側の上杉屋敷以前の場所に建てられたとすれば、窪地から堂はよく見え、「龕前堂(を頂く)谷」、「我善坊谷」と呼ばれたとして首肯できる。麻布我善坊町は近代以降も低層家屋が展開する独特の景観を示してきたが、令和元年(二〇一九)頃よりは家屋の全てが立ち退き、崖上の旧麻布郵便局庁舎解体を含む巨大な再開発が進行中である(図3-3-3-2)。

図3-3-3-2 再開発工事中の旧我善坊町より、崖上を見る
左手は霊友会 令和元年(2019)撮影


 さて『三縁山志』から、同地で拝領した増上寺下屋敷の記述を見ると、葬送領域をさらに追認できる。この下屋敷について、寛永三年(一六二六)「崇源院殿、御荼毘所並びに御道筋を寺地に賜れり」、「龕前坊谷と云う」とある。その証左として「寛永江戸全図」(一章一節一項「寛永江戸全図」参照)では、龕前堂推定地の上杉屋敷向かいとなる道筋の左側に「増上寺下屋敷」が示されている。現在の在日ロシア連邦大使館の西に接する狸穴(まみあな)坂を境とし、葬送の道筋沿いからは谷地を挟む台地である。二万三〇六九坪あまりで、法要に加わった増上寺の末寺が複数移ってきた。溜池より最上寺、金杉より正福寺と清岸寺、本芝より戒法寺(かいほうじ)、西久保より光取寺(こうしゅじ)などである。当時は増上寺狸穴下屋敷と呼ばれていた。しかし同地は、五五年後の寛文元年(一六六一)に、徳川綱重(三代将軍徳川家光三男・清揚院)の中屋敷とされた。綱重が幕府参議に補任され、甲府宰相と称されるようになった年である。そのためこれらの寺は、白金今里村(現在の白金二・五・六丁目、白金台一~五丁目ほか)の境に接する、荏原郡大崎村(現在の東京都品川区上大崎ほか)に移転した。『三縁山志』で大崎下屋敷として掲載された文政当時の寺は、上記のほか、善長寺、了福寺、本願寺など八か寺であった。白金台に続く台地の東南先端で、眼下に大崎村の田畑を見渡す地であった(図3-3-3-3)。その後当地では、江戸後期に廃寺となった了福寺の跡地へ、明治二四年(一八九一)に高輪より宝蔵寺が転入した。また増上寺山下谷より、明治三七年(一九〇四)に隆崇院が転入した。明治四三年(一九一〇)には下高輪より常光寺が転来し、正福寺を合併。昭和六年(一九三一)に増上寺八軒寺町より月窓院が移転しており、現在九か寺で寺町を構成している。江戸期以来変わらず、周回する街路の両側を寺々が囲む、閑静な一角となっている。

図3-3-3-3 大崎下屋敷『三縁山志』