麻布一本松隠居屋敷

380 ~ 381 / 499ページ
 増上寺の創建以来、境内の塔頭(たっちゅう)(山内寺院)は歴代法主(住持)の隠棲の地でもあった。貝塚時代の瑞華院・花岳院(かがくいん)・天光院などである。また、芝に移建してからの観智院は、増上寺中興とされる一二世源誉存応(げんよぞんのう)(普光観智国師(ふこうかんちこくし))が隠棲したことからその院名がある。こうした前例を変えたのは、本誉露白(ほんよろはく)の代である。四代将軍家綱や、徳川御三家の尾張・水戸家からも厚遇された露白は、万治二年(一六五九)、七二歳で増上寺二四世法主となった。寛文二年(一六六二)に隠居を願い出ると、幕府の命により「四方の絶景壮観の地を求め」られ、麻布一本松の地(現在の元麻布二丁目、麻布十番二丁目)に僧房と隠居領二〇〇石を賜った。もとは麻布氷川社があった場所で、暗闇坂に接する高台であった。造営も幕府によるもので、延宝四年(一六七六)以来、宝暦一〇年(一七六〇)まで、たびたび幕府による修理が行われた。
 また三二世貞誉了也(ていよりょうや)は、五代将軍徳川綱吉に篤く信頼された法主で、浄土宗宗祖法然の由緒寺院である美作誕生寺(みまさかたんじょうじ)の復興のため五〇石と、また法然に「円光大師」の諡号(しごう)(朝廷から贈られる大師号)を賜った。了也は引退後の元禄一四年(一七〇一)以後も、この一本松隠居屋敷に桂昌院の「法義御聴聞」と数度の五代綱吉の入御(にゅうぎょ)があり、拝領物があった。桂昌院逝去の際は隠居後ながら、五代綱吉に乞われ葬儀の導師を務めた。了也存命中に次の法主證誉雲臥(しょうようんが)の隠居が決まった宝永元年(一七〇四)には、了也のために湯島大根畑(現在の東京都文京区湯島)に閑居所を賜っている。
 その後も、歴代法主が隠居し「閑座念仏(かんざねんぶつ)」「西土往詣(せいどおうけい)」へ進む終の住処であった(図3-3-3-4)。やがて、四六世妙誉定月(みょうよじょうげつ)の隠居は、当地に入所するも間も無く、山下谷の学寮跡地に自身で営んだ庵に移るという事例であった。その後も五二世統誉圓宣(とうよえんせん)の代までは、一本松への隠居は続いたが、五三世以降の法主は増上寺山内の学寮地に隠棲することが増えた。『三縁山志』著者の摂門が当地を訪問した文政二年(一八一九)頃はすでに寂れて、優美な庭や氷川社の祠跡などが「夢無常をしめす」無人の地であった。現在、旧一本松町の名称の発祥とされる松の樹は既に存在しないが、高台の中低層住宅地などになっている。    (伊坂道子)

図3-3-3-4 麻布一本松隠居所『三縁山志』

図3-3-4-1 『江戸名所図会』より増上寺


 天保五年(一八三四)の『江戸名所図会』(図3-3-4-1)では、増上寺境内の山内寺院と学寮の家並みが集う景観を「畳々として軒端を輾(きし)り」、「靡々(ひひ)として甍を連ねたり」と形容している。文政二年(一八一九)当時は、学寮八二宇、山内寺院五〇院となる盛観であった。それらは成立時期や役割によって坊中・別当・三蓮社・別院という職掌に分かれ、所化(しょけ)(学寮)を含め「山内五口」、「一山五手」などと呼ばれていた。本節ではこれらの役割分担に着目し、江戸の景観と現存する旧跡などから江戸期の境内空間を回顧する。伽藍・霊廟をとり巻いていた領域が江戸期と変わらず現存していることが、増上寺最大の特色といえる。