寺院境内は僧の生活や学問の場として、古くから住まいを内包していた。子院(しいん)・塔頭(たっちゅう)・寺中(じちゅう)など、名称は宗派や成立要因などにより異なる。例えば法隆寺の場合、草創期には、僧侶の住空間は集団生活をする僧房であったが、平安時代後期以後、一人の高僧を中心とする生活単位として分立する「子院」へと移行した。やがて、子院も僧の出身により学侶と堂衆(どうしゅ)という上下関係が生じ、建造物についても門の形式や持仏堂の有無などに差異があった。
「塔頭」は、中国の禅寺において発生し、わが国に伝来した。塔頭の語源を辿(たど)ると、まず塔婆(とうば)とは、釈迦の遺骨(仏舎利)をまつる施設で、五重塔や仏塔に代表される。やがて高僧の入滅後に墓が営まれたとき、これを仏舎利塔に準じて、塔・塔所(たっしょ)と呼ぶようになった。塔頭も同義、あるいはそれを護持する施設を示す名称であった。これら塔頭の建造物配置は中央室奥に仏壇を設けて六室構成とする客殿と、生活空間である庫裡(くり)とを一対で配置することが、中世後期以降、定型的なものになっていった。
寺院本堂の門前に子院または塔頭がならぶ境内環境の痕跡は、古都に限らず現代の都市においても、至るところに現存している。名所図会などで「支院」と表記されることもあるが、「子院」より広義な表現といえるだろう。