幕末の増上寺山内

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 江戸期の増上寺山内寺院(支院)を、『三縁山志』と明治二年(一八六九)「諸宗作事図帳」の記述をもとに、職掌分類と成立年代、記号を付し、本節末の「増上寺山内寺院(支院)等一覧表」(表3-3-2)に示す。現在旧境内で継承されている寺院は旧境内地図(図3-3-1)内の記号とも対応している。
「諸宗作事図帳」は、幕末期の江戸御府内寺院についての土地・建築申請書で、増上寺当該部分は明治二年(一八六九)に書き上げられた。幕末境内の最終形と言える。以下本項では、この増上寺部分を「諸宗作事図帳」と示し、『三緑山志』など古記録も参照しながら、山内寺院(支院)の作事や、また旧境内に現存し、江戸期の記憶を伝承する建造物等について紹介する。
「諸宗作事図帳」では、冒頭に「境内總坪、二拾壱万六千七百五十坪」と記され、当時の山内図が示される(図3-3-4-2)。続いて、方丈、子院と学寮、曼陀羅堂(まんだらどう)および地方(じかた)役所の作事図(敷地と間取り図)が収録されている。具体的な敷地境界寸法もあり、現代の街路と対照可能である。

図3-3-4-2 明治2年の増上寺山内図(右が北)
「諸宗作事図帳」国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 前節で示した境内の動向以後、方丈後方にあった三蓮社のうち岳蓮社(がくれんじゃ)が天保一五年(弘化元・一八四四)に境内北西の永井町側の空地へ、鑑蓮社(かんれんじゃ)が嘉永七年(安政元・一八五四)に南西の宝珠院と通元院の間に移動し、鑑蓮社跡地には、十二代将軍徳川家慶菩提のために曼陀羅堂が建立された。
『三縁山志』の山内類焼記録によれば、山内寺院(支院)の過半は一回以上焼失しており、明治二年当時は、江戸後期の建造物が中心となっている。
 また寛文八年(一六六八)以降、本山級の大寺院を視覚的に差別化し、中小寺院の建築規模を制限するために、幕府が発令した「三間梁間(さんげんはりま)規制」についても、職掌によって遵守が異なる。
 現在、尺貫法(しゃっかんほう)における「間(けん)」とされるものは、中世頃までは寸法ではなく、柱と柱のあいだの数を「〇間」と示して、建築規模を表現するものであった。この表記は木造の門の規模を示すものとして残っている(増上寺三門は「五間三戸」、すなわち柱間(はしらま)の数が五、通過できる扉部分が三、である)。
 一方、江戸時代には寸法として「江戸間(えどま)」(一間=一・八一八メートル)、「京間(きょうま)」(一間=一・九六九メートル)など、地域によって基準が異なっていた。本項では、初出に概数として「三間(約五・四メートル)」と示し、以降は省略する。実際には常照院土蔵は江戸間、妙定院土蔵は京間であったことが調査から判明している。