坊中(月行事:あ~す、中臈:セ~ホ)

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 山内寺院総数の六割を占めていた坊中は、現存している事例が多い。『三縁山志』では「子院は塔頭なり」とある。坊中と子院は同義として用いられ、貝塚から継承されたものを含め、芝移転当初に成立した坊中は一三院あった。これらは月行事と呼ばれ、旧暦で閏月を入れると一年が一三か月となることから定められたと思われる。本堂や安国殿での法要挙行の役割を担っていた。寛永期(一六二四~一六四四)以降には台徳院霊廟造営と本堂再営があり、法事も壮大化し、声明の僧が山内坊中に移り住んだ。これらには中臈(ちゅうろう)の階位が与えられ、延宝年間(一六七三~一六八一)までに月行事と中臈を合わせてのべ三〇院となった。各院が大名家の宿坊を担っていたことから、坊中の創立や造営には大名家の援助もあった。現在、旧境内にて継承されている坊中は一四院あり、それらを中心に様相を示す。
 廣度院(こうどいん)(表3-3-2:あ)は、増上寺三門の向かい側にあり、大門通りと御成道の双方に面している。現存している廣度院表門(おもてもん)と練塀(ねりべい)は、かつて坊中寺院が建ち並んでいた江戸期の景観を彷彿させる。開祖酉誉聖聰が江戸の貝塚で増上寺を創建した際に、寺内に僧の書籍閲覧、修行の場として別に一院を設けたのがはじまりとされる、山内最古の坊中である。院内には、増上寺の前身が真言宗の寺であったときの本尊・不動明王を祀る不動堂があった。作事図(図3-3-4-3)から御成道(「松原通」)側に不動堂への門があり、大門通り側には現存する表門(図3-3-4-4)があった。表門は一間一戸の薬医門(本柱の後のみに控柱(ひかえばしら)を設ける門)で、廣度院を宿坊とした筆頭の大名である、松平安芸守(広島藩浅野家)の家紋が軒下の蟇股(かえるまた)(梁の中央に載せて上部の横材支える材で、カエルのような形をしている)に彫刻されている(表3-3-2の宿坊大名家欄参照)。

図3-3-4-3 廣度院作事図(右が北)
「諸宗作事図帳」国立国会図書館デジタルコレクションから転載

図3-3-4-4 廣度院表門と練塀
現存


 また、現存する練塀は、表門の西に接し北へ連続して、延長約四〇メートルある。練塀は増上寺三門の両側にも現存しているが、江戸期には大門通りの両側や、御成道にも築かれていた。参道の防御を固める重要な工作物として、幕府による修理とされ、松原とともに威風ある景観を形成していた。

図3-3-4-5 安養院作事図(右が北)
「諸宗作事図帳」国立国会図書館デジタルコレクションから転載

図3-3-4-6 安養院
安養院所蔵


 安養院(表3-3-2:タ)は中臈の坊中であり、江戸以来の旧地にて現存している。作事図の建物(図3-3-4-5)は昭和二〇年(一九四五)の東京大空襲(戦災)で焼失したが、明治前期に院内に芝区役所が置かれたこともあり、古写真が残る(図3-3-4-6)。宿坊としたのは土佐藩山内家はじめ四家であった。大門通りに面して屋根付の表門がある。敷石で玄関に導かれ、客殿中央には、仏壇がある。その規模は桁行き一二間半で、梁間方向は三間(約五・四メートル)の主体部および、庇(ひさし)九尺(約二・七メートル)と錣(しころ)(孫庇)九尺を合わせて、六間の奥行きである。古写真から、この客殿全体に大屋根が載っていたことがうかがえる。客殿の後方にも二室を設ける。前方東側は台所、下部屋などがある庫裡である。表門の両脇には供待ち、馬立てがあり、大名家の宿坊らしさを見せる。また敷地南東に土蔵、客殿西側に土蔵造りと思われる位牌堂がある。
 安養院のみならず、坊中全般の間取りをみると、客殿(住宅型本堂)と庫裡で構成され、薬医門などの屋根付きの門を有していたことがわかる。
 常照院(表3-3-2:き)は大門通りの北側奥にあり、その土蔵が現存している。関東大震災後に外壁を石積みとし、戦災焼失を免れた。江戸期に「あかん堂」と呼ばれた念仏堂である。宿坊としていた大名家は佐賀藩鍋島家、一橋徳川家など一一家あった。市川團十郎の旦那寺であったことでも知られる。戦後は前方に本堂を建て継ぎ、土蔵を本堂内陣としている。土蔵内部は、黒塗り格天井(ごうてんじょう)に梵字入りの文様を飾り、正面仏壇は入母屋造りの宮殿、極彩色の彫刻や組物などによる壁面とする(図3-3-4-7)。同院には、この土蔵は御霊屋を移築したものという伝承があった。増上寺所蔵の「月番日鑑(にっかん)」を調査したところ、常照院念仏堂は宝暦一二年(一七六二)に焼失したため、解体保管されていた性高院(家康四男松平忠吉)霊牌所(本節一項「徳川氏菩提のために造営が始まる」参照)の建築部材を下賜され、明和六年(一七六九)に再建されたことが判明した。仏壇の宮殿には、江戸期伝来の本尊である善光寺如来が安置されている。

図3-3-4-7 常照院 土蔵内部 現存
内部は非公開 ©淺川敏


 幕府や大名家からの資材援助について、他の子院の例を挙げてみよう。
 源流院(表3-3-2:し)は、増上寺造営奉行であった常陸江戸崎藩主青山忠成の時代に建設の余材で営まれ、後に院内に忠成親子が葬された。同院が開創された寛永期(一六二四~一六四四)は第一次崇源院廟、台徳院廟造営、安国殿改築などが相次いでいる。文政期(一八一八~一八三〇)の源流院の宿坊にも青山家の名がみられる。源流院以外にも坊中の敷地には後方に墓地を設ける例も多く、幕臣が山内寺院に埋葬される例もあったとみられる。
 天光院(表3-3-2:お)は尾張徳川家の宿坊であるが、尾張藩市ヶ谷上屋敷の西御殿内長局の部材が、火災に遭った天光院に下賜され、嘉永三年(一八五〇)に長屋門(図3-3-4-8)、同五年に居間へ転用・再建されていたことが近年の調査から明らかになる(金行 一九九六)など、坊中寺院への支援が判明している。

図3-3-4-8 天光院 長屋門
関東大震災により焼失


 良源院(跡地/表3-3-2:か)は仙台藩伊達家の宿坊であった。伊達騒動の際、世嗣(せいし)を毒殺の危険から守ろうと、院内の清らかな井戸水を、生母の浅岡局が自ら汲み、調理したと伝わる。良源院は、御成道に並行する松原裏通りに面していたが、明治六年(一八七三)に貞松院の出火で類焼し、跡地には明治中期に東京勧工場(かんこうば)(物品陳列館。百貨店の前身)が設立された。現在は港区役所となり、構内に「浅岡飯炊きの井」として江戸の井戸枠が保存されている。

図3-3-4-9 常行院 納骨堂 現存


 常行院(表3-3-2:ネ)は、三門の東向かいにある中臈の坊中で、岡山藩池田家、秋月藩(福岡藩の支藩)黒田家など二〇家を超える大名家の宿坊を務めていた。江戸の建造物は焼失したが、現在まで同地で継承されている。大門通り側は、戦後の開発で商業ビルとなったが、三門側は寺院の佇まいを良好に残す。昭和六年(一九三一)に建立された納骨堂(図3-3-4-9)は、震災復興期の鉄筋コンクリート造りの堂宇(どうう)で、戦災焼失を免れた。建築当初は、朱色の外壁で三州(三河国)産赤瓦が葺(ふ)かれていたとみられる。
 大門通りは戦後に商業地化したためわかりにくいが、上述以外にも、江戸期の旧坊中寺院がすべて現存している(表3-3-2参照)。