別当(A~K:霊廟の別当)

389 ~ 392 / 499ページ
 別当の職務は「守廟清務」とされる。安国殿および御霊屋を守護するため、霊廟建立のつど創立された。八院で七つの霊廟を護り、山内では「御別当」と敬称を付けて呼ばれていた。坊中同様に宿坊の機能を持つ。江戸期の別当寺院は、現在六院が旧境内で継承されているが、江戸以前の建造物は現存していない。安立院は明治初年の神仏分離の際、神社・東照宮として独立し、同院は廃寺となった。
 江戸期の別当の敷地や建築は、八例とも坊中より規模が大きかった。別当は霊廟近傍に位置するが、特に境内西後方の、通元院・真乗院・瑞蓮院は、山の地形を取り込んだ広大な敷地で、庭園も豊かであったことが想像される。また、丸山と飯倉神明宮を背景に位置する別当四院も、閑静で趣あるものだったとみられる。別当の多くは表門を長屋門形式とし、坊中との格式の違いをうかがわせる。
 宝松院(表3-3-2:C)は、台徳院霊廟の別当で、宿坊としていた大名家は出羽久保田藩佐竹家以下一二家あった。敷地の東側を南谷の学寮地に面して、長屋門を設ける。広い前庭のある玄関は、主屋の梁間側に位置する。続く座敷は梁間二間半、桁行き十間半あるが、接客のための広間とみられ、仏壇はない。座敷の隣に角屋があり、南側の庭に面する。座敷の北側には、梁間二間半、桁行き四間半の単独の仏間が、茶の間と隣接しており、やや私的な位置にある。仏間に面する中庭を介して、敷地の西と北にも座敷があり、台所に続く。西の飯倉神明宮側に土蔵がある(図3-3-4-10)。

図3-3-4-10 宝松院作事図(右が北)
「諸宗作事図帳」国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 台徳院廟のもう一つの別当であった恵眼院(大眼院)は、昭和二〇年(一九四五)以降に境内から転出したが、平成二四年(二〇一二)に旧境内地に復帰した。
 真乗院(表3-3-2:J)は、文昭院霊廟の別当で、宿坊としていた大名家は彦根藩井伊家、沼津藩水野家、豊後森藩久留島家の三家であった。敷地は山内屈指の広さであり、増上寺境内の紅葉山に続く景勝地で、『三縁山志』では、真乗院の美庭のようすが描かれている。(図3-3-4-11①②)。真乗院の入口左手は冠木門(かぶきもん)、十二間奥へ長屋門があり、玄関前庭へ至る悠々としたアプローチである。奥の庭とは板塀で区画され、塀重門が設けられている。玄関は南面の座敷に付く。主要な座敷が庭に面していたと考えられる。土蔵は敷地北側に四戸、南に一戸ある(図3-3-4-12)。

図3-3-4-11① 真乗院庭『三縁山志』

図3-3-4-11② 真乗院庭『三縁山志』

図3-3-4-12 真乗院作事図(右が北)
「諸宗作事図帳」国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 この例に見るように、別当には土蔵が多いのも特徴である(表3-3-2・土蔵欄参照)。天明八年(一七八八)の幕府の法令には、「御別当構」の室名を示す部分があり、御霊屋勤仕(きんし)や法事に必要と思われる供米蔵、道具蔵などの記載があるが、それらは幕府による修理であった。さらに、御膳所、調進所、下御供所(ごくしょ)などの法事に対応する用途の室名もある。特に御供所とは、神仏の供物を取り扱う空間として、御霊屋本殿にも接して御供所が建てられている。増上寺では、この空間が法事の際の控え室などとして使用されていた。下御供所は、これに対応する別当内の供所を示したもので、過去の法事記録には別当寺院そのものを下御供所と表記する例もあり、別当の祭祀空間を持つ性格が示されている。
 別当全般に私的な墓所についての記載はない。構造は梁間三間以内としたものと、作事一部にこれを超える棟をもつものとに分かれている。別当は、恵まれた敷地と建造物を持っていたことで、明治維新後の政府機関などに利用され、自らは旧学寮地などに移転した経緯がある。
 通元院(表3-3-2:I)は、清揚院の別当で霊廟の西麓にあったが、明治二〇年(一八八七)に東京府集会所用地とされ、別院の酉蓮社の地である将監(しょうげん)橋際へ移転・同居した。通元院の鎮守である瘡守稲荷は継承され、元禄六年(一六九三)の石塔も現存している。