三蓮社(e~g)

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 三蓮社は徳川家子女の霊牌所別当である。「御幼君の御方々または紀尾へ御入輿ありし」人々を回向し、別当に準ずるとして列挙されている。宿坊の割り当てはない。三蓮社の建造物は独自の機能を持っている。前掲の御霊屋別当は、公式業務の場は将軍や将軍夫人の位牌が祀られる霊廟である。一方三蓮社は、供養対象の位牌は自坊の仏殿に祀られるので、位牌所としての公式な機能を持っているのである。三蓮社に宿坊の指定がないのは、このためと考えられる。

図3-3-4-13 鑑蓮社(右が北)
「通元院境」は北。「宝珠院境」は南。「飯倉町通」は西。「山内往来」は東である。
「諸宗作事図帳」国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 鑑蓮社(表3-3-2:g/作事図内の南北表記は誤り)は、紀伊徳川家による建立と修復があり、紀伊家へ嫁いでいた明信院(五代将軍徳川綱吉女・鶴姫、紀伊徳川綱教(つなのり)室)などの霊牌所があった。鑑蓮社の作事の主要部は、北側にある仏殿である。間口は六間で、梁間三間規制を意識しない。この仏殿には唐破風(からはふ)の立派な式台が付く(図3-3-4-13)。紀州徳川家の面々が駕籠で訪れたのだろう。また仏殿前庭には唐門(からもん)があり、戦前の写真にも残っている(図3-3-4-14)が、仏殿も堂々たる入母屋造りである。仏殿から内廊下へは太鼓橋があるなど、瀟洒(しょうしゃ)な構成であり、その作事は別当以上の、意匠を凝らしたものであった可能性がある。また往来側には、「鎮守」である車折(くるまざき)大明神を祀っていた。戦後は御霊屋の花畑であった善長寺を合寺し、旧地で継承されている。

図3-3-4-14 戦前の鑑蓮社
鑑蓮社善長寺所蔵 戦災焼失


 松蓮社(表3-3-2:f)は、尾張徳川家建立で、方丈の後通り突きあたりに位置し、創立以来同地にて、現在まで継承されている。表門は独立形式で、玄関から広間、次の間、三間四方の仏殿、角屋そして内仏間へと続く。主座敷は南西の庭に面し、北側の住居向には、僧部屋、茶之間、梁間四間の居間、梁間六間の台所などが連なる。梁間三間を超える主体部が多く見受けられ、鑑蓮社同様に梁間三間規制の対象外だったと考えられる。当地は地蔵山の丘陵が敷地内に接しており、古来の原地形が彷彿とされる。ここには弁天を祀る洞窟(どうくつ)も保存されている。戦前には霊仙院(家光女千代姫、尾張徳川光友室)の位牌殿(図3-3-4-15)が、敷地内に単独で建っていた。

図3-3-4-15 松蓮社 位牌殿
松蓮社所蔵 戦災焼失


 岳蓮社(表3-3-2:e)は、天和三年(一六八三)に、浄徳院(五代綱吉子・徳松)の別当となって以来、将軍家で夭逝(ようせい)した子女や、将軍側室の墓所となった。幕末には山内最大の敷地面積となり、建物は幕府による造営・修理であった。当地は明治以降、浄土宗の教育機関が置かれ、現在は芝学園となっている。その構内に岳蓮社(がくれんじゃ)が堂宇として祀られている。