別院(1~8)

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 別院は「別開蓮社」とされ、江戸期に一〇院を数えている。「御別当所、坊中、学寮に別てる院なればなり」とあり、元禄五年(一六九二)の御府内の新地寺院建立禁止後に創始されたものが多い。将軍家に因む別院がある一方、山内に個別の信仰対象として発生した堂宇が、後に別院と定められたものもある。清光寺以外は宿坊の割り当てがなく、江戸期は本堂と庫裡(くり)を中心にする間取りとした。現在、旧境内で五院が継承されている。
 宝珠院(表3-3-2:1)は、山内の蓮池弁財天の別当で、寛政一一年(一七九九)以来、池の浮島にあったが、文化八年(一八一一)の火災で類焼し、境内火除地囲込みの際、一経院と清林院の兼帯となり、蓮池から往来を挟んだ赤羽門(柵門)脇に移転した。蓮池の弁天社は、増上寺の鬼門にある鎮守・熊野社に対し、裏鬼門を護る社として神聖視され、蓮池の弁天として江戸府内に知られ、多くの参拝者があった(図3-3-1)。
 敷地は往来中央に面して屋根付の門を構える。本堂は間口六間、奥行き七間で「向拝」が付き、三間梁間規制を意識しない仏堂である。北側は三仏堂で、合併となった一経院の薬師如来等が祀られていたと思われる。戦後は復元された蓮池の北側に移転し、継承されている。閻魔(えんま)を祀っていることでも知られる。
 心光院(表3-3-2:2)の前身は貝塚時代の学寮であった。元禄八年(一六九五)、台徳院菩提の常念仏が心光院で執行され、初代家康と二代秀忠の尊牌が安置された。当初は山内北西部の涅槃(ねはん)門付近に位置しており、院内には布引観音堂があった。二代秀忠が寵愛した白馬の「布引」を葬り、記念したもので、馬頭観音が安置されていた。
 その後宝暦一一年(一七六一)、九代将軍徳川家重(いえしげ)(惇信院(じゅんしんいん))の宝塔が造営されることになった際、心光院の場所が近接していたため、三縁山の外境内と称して増上寺別院のまま、芝赤羽橋際へ移転した。赤羽川沿いの往来に、表門や土蔵造りの本堂を設け、西側には、観音堂と千体堂があった。『江戸名所図会』では、心光院は増上寺と別の誌面で紹介されており、町寺のような側面をもち継承された。観音堂の修理費は、台徳院御修理料から拠出され、幕末まで幕府による修復となっていた。
 心光院は戦災で堂舎を失い、その後昭和二五年(一九五〇)に区画整理事業のため、再度増上寺旧境内に隣接する現在地の東麻布へ移転した。東京タワーの西麓である。こうした移転のつど移築、保存されてきたのが心光院表門である(図3-3-4-16)。表門は、一間一戸の四脚門(本柱の前後に控え柱がある門)で坊中の薬医門より格が高い。棟札には、建立は寛保三年(一七四三)で、文化元年(一八〇四)の修補とあり、赤羽転地以前の山内で建てられ、移転後修復されたことを示す。坊中の薬医門と比べると、時代の古い素朴さと優雅さを感じられる門である。現在の境内で、戦災復興として建立された木造本堂は、増上寺別院建築の佇(たたず)まいを感じさせる、近代和風の逸品である。

図3-3-4-16 心光院 表門 現存
©淺川敏


 妙定院(表3-3-2:6)は、増上寺四六世法主妙誉定月(みょうよじょうげつ)により、その在職中である宝暦一三年(一七六三)に創立された。後に定月の隠居所となっている。定月は九代家重(惇信院)の葬儀の際に大導師を務めたことから、院内には惇信院の位牌が祀られている。妙定院敷地は丸山南麓で、南は赤羽川の土手を背にして本堂と庫裏が配置されている。本堂は「六間四面」と記載され、定月存命中の明和六年(一七六九)に建立されたもので、戦前の写真(図3-3-4-17)から寄せ棟造りの高い屋根の様子が知られる。また台所の梁間は四間半、座敷二棟も梁間四間と明記されており構造主体部はすべて三間を超えている。敷地内には経蔵、地蔵堂を含めて、土蔵造りと考えられるものが五か所にあった。このうち、熊野堂(図3-3-4-18)と上土蔵(図3-3-4-19)は当地の敷地内で移築・再生されて現存しており、江戸期伝来の所蔵品を護っている。

図3-3-4-17 明治期の妙定院 本堂
戦災焼失

図3-3-4-18 妙定院 熊野堂 現存

図3-3-4-19 妙定院 上土蔵 現存


 これらのように別院の本堂は梁間三間を超え、座敷、庫裡等の棟についても梁間三間を超える主体部を持つものが多かった。屋根の高さが抑えられた坊中や学寮が建ち並ぶ境内に点在する別院では、その本堂等が家並みを超えて、ある程度の高さをみせていたと想像される。
 酉蓮社(ゆうれんじゃ)(表3-3-2:5)は、明本の一切経を収める報恩蔵を持っていたことで知られていた。(図3-3-4-20)は、昭和初期に、道路拡幅のため再建された鉄筋コンクリート造の報恩蔵である。酉蓮社の土地は戦後、高速道路の工事範囲として接収され、目黒区平町に移転して継承されている。

図3-3-4-20 酉蓮社 報恩蔵
昭和17年頃 現存せず


 清光寺(表3-3-2:7)は赤羽川のほとりにあり、もと清光院として声明の僧が住していたが、明和元年(一七六四)頃に寺に改め、五〇世法主の便誉隆善(べんよりゅうぜん)の命で別院となった。庄内藩城主酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の墓所があり、酒井家をはじめとする、一〇家の宿坊を務めていた。戦後は道路の拡幅や、高速道路の建設などに遭遇しながらも当地にて継承されている。
 安蓮社(表3-3-2:8)は増上寺観音山麓にあり、増上寺全体の墓所領域であった。歴代法主の巨大な卵塔(らんとう)(台座上に卵形の塔身をのせた僧の墓)が置かれる(図3-3-4-21)。性高院(家康四男松平忠吉)霊牌所の跡地に、増上寺行者の田中文周が庵を結んだのが始まりとされる。武家方の墓所でもあり、また旗本三井家の墓所でもあった(本章六節三項参照)。現在も当地で継承されている。

図3-3-4-21 安蓮社 現存
©淺川敏